エンクレストマンションが展開する福岡市は中世からの商都「博多」と
近世(江戸時代以降)以来の武家町「福岡」を擁する双子都市として発展しました。
(神屋宗湛)
「叔父さん、大変です!以前に私が『それでは、次回は関ヶ原の戦い以降の鍋島家について教えていただきませう。』と言っていたのに、天下三陪臣の最終回がまだやっていないと苦情が来ていますよ!」
(島井宗室)
「何と!案内役である我々が予告を破るとは何たること。」
(神屋宗湛)
「その通りですよ。」
(島井宗室)
「全く、この島井宗室が年老いて物忘れがひどくなった為に皆様にとんだご迷惑を・・・・」
(神屋宗湛)
「叔父さんは最低ですよね~!」
(島井宗室)
「ってお前も同罪だろうが、宗湛!」
(小早川隆景)
「まあまあ、お二人とも。それよりも皆様にご説明すべきは、佐賀の主となった鍋島直茂殿と佐賀藩のその後でございましょう。」
(島井宗室)
「確かに。では、早速小早川様にお話をお願い致しましょう。」
(神屋宗湛)
「ですね。」
(小早川隆景)
「では。天下分け目の戦いとなった関ヶ原の戦いにおいては、直茂殿の息子・鍋島勝茂が緒戦で西軍方に味方し、我が甥・吉川広家らと共に徳川家重臣・鳥居元忠が守る伏見城を落城させた為、東軍の勝利を確信していた鍋島直茂殿は苦しい対応を迫られました。」
(島井宗室)
「鍋島直茂殿は、まず家康公に大量の兵糧(軍用食料)を贈って敵意が無いことを示したとか?」
(神屋宗湛)
「更に、鍋島軍を関ヶ原から引き揚げさせ、本国佐賀に帰還するように急使を送ったそうですね。」
(小早川隆景)
「恐るべき直感です。その後は家康公の信頼を得るために大坂城やから撤退した立花宗茂の柳川城を攻略し、関ヶ原から戻った島津義弘を加藤清正らと共に追撃して薩摩国(鹿児島県)に迫り、事実上の休戦が成立しました。」
(神屋宗湛)
「その功績で、何とか鍋島家(=佐賀藩)は取り潰しを免れたわけですね。」
(島井宗室)
「しかし、関ヶ原の戦い後も佐賀藩では苦しい舵取りが続いたようですな。」
(小早川隆景)
「はい。家康公が豊臣家を滅ぼした大坂の陣(1614~1615年)では、鍋島氏は徳川方の一員として参加しました。」
(島井宗室)
「しかし、関ヶ原の戦いの緒戦で西軍に味方した息子の鍋島勝茂は、自身が徳川幕府から札付き(前科者)として扱われているのではないかと常に警戒し、汚名を返上する機会を伺っていたようですぞ。」
(神屋宗湛)
「それはそうですよね。だって『大坂の陣で徳川方の一員として参加した』といっても、徳川幕府の大名としては当たり前のことで、黒田様や伊達政宗殿といった実力を警戒されている有力大名は全て徳川方に参加していますからね~。」
(小早川隆景)
「そうした中、1618年に鍋島直茂殿が亡くなり、跡を継いだ鍋島勝茂は焦りを強めていきました。」
(島井宗室)
「そして1637年、龍造寺・鍋島氏とは因縁深い島原半島で、有馬氏の元家臣らに率いられたキリシタン住民らが、新領主・松倉氏の重税やキリスト教迫害に反発して決起。松倉氏の居城・島原城を攻撃し、市街地を焼き払った・・・・。」
(神屋宗湛)
「島原の乱の勃発ですね。」
(小早川隆景)
「そうです。同時に天草でも一揆が発生したことから島原・天草の乱とも呼ばれます。」
(島井宗室)
「天草は唐津藩主・寺沢氏の分国でしたな?」
(神屋宗湛)
「天草の一揆軍の勢いも凄まじく、天草の政庁・富岡城の守将を戦死させています。」
(小早川隆景)
「更には天草の一揆軍が島原半島に渡海して合流したことから、総勢3万7000人の一揆軍は廃城になっていた原城跡に立て籠もりました。」
(島井宗室)
「原城は、かつての島原領主・有馬氏が海に突き出た台地上に築いた要害。徳川幕府はさぞ慌てたことでしょう。」
(神屋宗湛)
「逆に、佐賀藩主の鍋島氏にとっては幕府に借りを返すチャンスですね。」
(小早川隆景)
「鍋島勝茂は3万5000人余りの将兵を長男の鍋島元茂に授けて島原に派遣しましたが、これは総計12万に及ぶ幕府軍の実に3分の1に及びました。更に、他の大名に抜きんでた戦功を上げるため、勝茂は元茂に『今回の事件は肥前国内の問題である。場合によっては、幕府の現場指揮官の命令を無視してでも積極的に戦い、戦功を上げよ!』との物騒な手紙も送って督励しました。」
(島井宗室)
「なるほど。積極的に行動した者は軍令違反を犯しても賞される、という戦国時代特有の発想ですな。」
(小早川隆景)
「そういうことです。ところで、島原の戦場は勝茂の思惑通りの激戦となりました。一揆軍の幹部(天草四郎、こと益田時貞が総大将というのは誤り)は、『戦死することは神に殉ずることである』と参加者の結束を固めており、しかも有馬氏や小西氏の元家来が鉄砲の調練などを施した結果、寄せ集めの農民一揆軍ではなく、実戦的で強力な軍隊に変貌していました。一人目の幕府軍総指揮官・板倉重昌は一揆軍を農民と侮って戦功を焦り、現地の各大名家を充分に統率できないまま強引な攻撃を繰り返し、とうとう戦死してしまいました。」
(神屋宗湛)
「当時の将軍・徳川家光公は現地での思わぬ苦戦の報告を受けて事態を重視し、板倉重昌の上官として幕府老中(閣僚クラス)の松平信綱を島原に派遣することにしたそうですが、間に合わなかったようですね。」
(島井宗室)
「松平信綱といえば、『知恵伊豆(知恵者・松平伊豆守信綱の意味)』と呼ばれた切れ者で、家光公の信任厚い側近ですな?」
(小早川隆景)
「そうです。松平信綱は、かつての大坂冬の陣のように兵糧攻めと心理戦を重視し、一揆軍が疲労するのを待つ作戦に出ました。矢文を度々城内に送っては、『戦わずに降参した者は助命する』とのメッセージを伝えました。更に、同じキリシタンであるオランダの貿易船に原城砲撃を要請しました。」
(島井宗室)
「5ケ月に及ぶ籠城戦で、一揆軍の参加者は次第に飢えや弾薬不足にみまわれたそうで・・・・。」
(神屋宗湛)
「松平信綱の計画が徐々に効果を上げ始めたのですね?」
(小早川隆景)
「ええ。一揆軍の参加者が海草等を採って飢えをしのいでいることや、場内からの鉄砲の応射が減って石を投げる光景が増えたことを知った松平信綱は、戦いが最終段階にあることを確信し、総攻撃の日付と部署を定めました。ところが・・・・。」
(島井宗室)
「命令の期日を守らずに、密かに自分達だけで抜け駆けの準備をする一隊がいた・・・・。」
(神屋宗湛)
「勿論、それは指揮を執る為に自ら現地入りした佐賀藩主・鍋島勝茂の率いる軍勢3万5000。鍋島軍は独自の情報に基づいて、やはり戦いが最終段階に至っていることをつかんでいたのでしょうね。」
(小早川隆景)
「お察しの通りです。総攻撃に備えて部署の最終確認をしていた幕府軍総大将・松平信綱の下に急報が届きます。『鍋島軍が攻撃を始めました!』と。」
(島井宗室)
「幕府軍全体の3分の1を占める鍋島軍が攻撃を開始しては、松平信綱もなし崩し的に総攻撃を命ずるしかなかったでしょう。」
(小早川隆景)
「結局、鍋島軍や細川軍(熊本藩)の力戦によって一揆軍の大部分は戦死し、島原の乱は鎮圧されました。」
(神屋宗湛)
「ということは、先駆けの功(危険な先陣を請け負った功績)で佐賀鍋島藩は領地の大幅加増?50万石クラスから100万石の大大名に飛躍ですね?いや、良かった良かった。」
(小早川隆景)
「宗湛殿、世の中はそう甘くはございませんぞ。幕府軍総大将の松平信綱は、鍋島軍の抜け駆けを『軍令違反』として問題視した為、鍋島勝茂は幕府から当面の間、閉門(しばらく謹慎して外出や来客を控える罰則)とされました。」
(島井宗室)
「なんと!」
(神屋宗湛)
「以前聞いたことがあるのですが、35万石といわれる佐賀藩の石高収入の内、約30万石は家臣達の人件費であり、財政は非常に苦しかったそうですね。」
(小早川隆景)
「そうです。戦国時代から江戸時代へと時代が移る中で、各大名は武力で領地を獲得して収入を増やすことが出来なくなりました。かといって倹約は楽ではないし、幕府から公共工事の負担は命じられる。」
(島井宗室)
「つまり、鍋島氏としては褒美に領地を増やしてもらって収入が増えるチャンスだと考えていたと?」
(小早川隆景)
「そうですね。そして、その予想通りに島原の乱を最後に江戸時代末期まで内乱はなくなりました・・・・。そして、幕末。長州藩の高杉晋作らに代表される尊皇攘夷とは裏腹に徳川幕府や各大名家は財政難に苦しみ、軍備を近代化して西洋列強を迎え撃つには程遠い状態、というのが正直なところでした。」
(神屋宗湛)
「一応、経済アナリストとして申し上げるとですね~・・・・。」
(島井宗室)
「誰が経済アナリストじゃ!」
(神屋宗湛)
「いいじゃないですか、叔父さん!ボクの経済分析は昨今のアナリストよりずっと分かり易いですよ。・・・・各大名家の財政難にはそれぞれ事情があり、例えば徳川幕府が各大名家に『天下普請』と呼ばれる公共工事費の負担を命じたのは、各大名家を経済的に困窮させ、反乱を防ぐのが目的でした。しかし、江戸時代前半の明暦の大火以降、徳川幕府自体の財政も悪化していきました。つまり、これは武家社会全体の不況を意味しています。実はもっと大きな財政悪化の共通原因があったのです。それは・・・・。」
(島井宗室)
「ズバリ、武家の収入源である米の値段が下がり、年貢として徴税した米を売却して生活する武士や幕府・大名家の経済状態を圧迫し始めたのです。」
(神屋宗湛)
「叔父さん、ずるい!」
(島井宗室)
「一度言ってみたかったのじゃよ。」
(小早川隆景)
「確かに、お二人の仰るとおりです。ただでさえ、藩主自身の収入が少ない鍋島家はピンチに陥りました。鍋島勝茂から数えて10代目の佐賀藩主・鍋島直正(鍋島閑叟)は、若い頃大勢の借金取りに囲まれて行列を止められるという酷い目にあっています。苦い思いをした直正は債務者との間で債務整理(!)を行うとともに、藩士の給与カットや特産品生産の奨励を行うことで、奇跡的に藩の財政を立て直すことに成功しました。」
(博多商人のコラム:鍋島直正)
1815~1871年。江戸時代末期の第10代佐賀藩主。通称である鍋島閑叟の名前で有名。それまで慢性的に財政難だった佐賀藩の財政立て直しを行う。更に、家柄にこだわらず江藤新平らの優秀な人材を登用すると共に、改善した財政によって西洋からの近代的な科学技術・産業技術導入に努める。これによって、佐賀藩は当時日本最強の軍隊を有するまでに至った。明治維新後は政府の高官として要職を歴任すると共に、多くの有能な人物を佐賀藩から輩出することとなった。
(島井宗室)
「なるほど。なかなかのやり手ですなあ。」
(神屋宗湛)
「収入を増やし、支出を減らす。財政改善の鉄則ですが、意外と難しいんですよね。」
(小早川隆景)
「鍋島直正の優れた手腕によって裕福になった佐賀藩は、日本最大の産業国、そして軍事大国になりました。黒船に乗った米海軍提督ペリーが徳川幕府に走る蒸気機関車をプレゼントしたのは有名ですが、同じ年に佐賀藩では田中久重(通称・からくり儀右衛門。東芝製作所の創業者)が同様の模型を自力で製作しています。」
(島井宗室)
「当時の模型というのは実物の構造をそのまま小さくしただけの物で、実際に人を乗せて走ることが出来たそうですね。つまり、模型を作れる=実物の蒸気機関車の構造を理解していたということでしょうな。」
(神屋宗湛)
「叔父さん、蒸気機関車だけではありませんよ。佐賀城や佐賀神社に行くと、江戸時代末期の大砲が誇らしげに展示されていますが、当時最強といわれたアームストロング砲(大砲)でさえ佐賀藩は自前で大量生産することが出来ました。当時の水戸藩主・徳川斉昭や薩摩藩主・島津斉彬も火砲の国産化を重視して反射炉の建造に挑戦しましたが、いずれもうまくいきませんでした。わずかに徳川幕府の代官・江川英龍が佐賀藩の技術援助で反射炉を築き、少数の火砲を製造出来ただけでした。」
(小早川隆景)
「幕末というと、長州藩や薩摩藩ばかりが目立つようですが、実際には佐賀藩が軍事力と経済力で他を圧倒しており、最終的には佐賀藩が明治新政府に味方した瞬間こそが歴史の転換点だと唱える人もいます。しかも、優秀な人材が綺羅星の如く佐賀から誕生しました。」
(島井宗室)
「佐賀の方から聞いたことがあります。佐賀には七賢人と呼ばれる幕末~明治の逸材のことですな?」
(小早川隆景)
「よく御存じで。下級藩士出身でありながら、初代司法卿(司法大臣)として民法などの近代的な法整備に努めた江藤新平。後の首相であり、早稲田大学の創立者でもある大隈重信。近代的な学制(教育基本制度)を定めた大木喬任。日本赤十字社の創立者・佐野常民。外務大臣・内務大臣を歴任し、書家としても知られる副島種臣。北海道の開拓に尽力した島義勇。以上に鍋島直正自身を加えて七賢人と呼ばれます。」
(神屋宗湛)
「それに、先述のからくり儀右衛門・田中久重に、我が国で初めて完全な種痘に成功した幕末の蘭方医・伊東玄朴など、枚挙にいとまがありません。」
(島井宗室)
「さすが佐賀藩は最強の天下三陪臣の末裔ですな。佐賀の地には英知があふれている。」
(小早川隆景)
「今度はみんなで佐賀城や高伝寺(鍋島家の菩提寺)に是非行きましょう!」
(島井宗室・神屋宗湛)
「賛成!」
[続く]
(母里太兵衛)
「ふわぁーっ、退屈で眠てーな。ゴールデンウィークとやらで街道も交通機関も混雑しておるし、槍の稽古をするにも、いい相手がおらんし。又兵衛の奴は博識の男だから、それがしと違って大殿や宗室殿の話し相手として引っ張りだこだし、殿の相手をするとそれがしに勝つまでやりたがるし・・・・。」
(後藤又兵衛)
「太兵衛、御在宅ですかな?」
(母里太兵衛)
「なーんだ、又兵衛ではないか?」
(後藤又兵衛)
「『なーんだ』とはごあいさつですな!せっかく旅行に誘いに来たのに。いくら休みだからといって昼間からゴロゴロしていては体がなまりますよ。」
(母里太兵衛)
「どこへ行こうというんだ?それがしは同じ武士でも、又兵衛や小早川様のように、難しい人物評などはついていけんぞ。」
(後藤又兵衛)
「いやいや。実は太兵衛殿がそのように思っておられようと思い、一緒に九州各地の城を巡る旅に出ようかと。」
(母里太兵衛)
「グスン。又兵衛ぇ、おぬしは実にいい後輩じゃ~!早速出かけるとしよう。」
(後藤又兵衛)
「いやあ、喜んでもらえて私も・・・・。って太兵衛殿!そんなに荷物を背負っては家から出られませんぞ。夜逃げじゃないんだから!」
唐津城
江戸時代初めに初代唐津藩主・寺沢広高によって現在の唐津市に築城された城郭。福岡市の名島城跡と同様に、唐津湾に面した海城である。かつては隣接する早稲田佐賀中学・高校の敷地が当城の二の丸であり、三の丸は現在の唐津市役所付近まで伸びていた。現在では天守台跡に復元天守閣が建てられ、『唐津くんち』と並ぶ唐津市の観光シンボルとなっている。
(母里太兵衛)
「いやあ、ようやく唐津に着いたぞ~。ここがJR唐津駅か。又兵衛、ここから歩くか?」
(後藤又兵衛)
「太兵衛殿。槍なぞ持って唐津の街を闊歩されては周りが迷惑です。ここは市内バスに乗りましょう。このバスに乗れば10分位で唐津城への城内橋がかかる宝当桟橋です。」
(母里太兵衛)
「りょうか~い・・・・。お、これは唐津市役所かな?石垣があるということは、ここまで城の敷地だったということか?」
(後藤又兵衛)
「そうです。かつての唐津城の敷地の内、二の丸の一部は中学校・高校に、三の丸は市役所等の市街地に生まれ変わっていますが、市内には他にも城の遺構が多く残っています。ほら、あそこに見えるのは江戸時代中頃に置かれた『時の太鼓』つまり時計台を復元したものです。」
(母里太兵衛)
「おいおい、そうこうしているうちに目的地の宝当桟橋に着いたぞ。」
(後藤又兵衛)
「因みにこの宝当桟橋は、宝くじ等にご利益があるとされる宝当神社に向かう船が出ています。ジャンボ宝くじの発売前なんかは賑わうんですよ。」
(母里太兵衛)
「しかし、今日は唐津城に向かって桟橋から城内へ向かうお客さんも多いようだわい。」
(後藤又兵衛)
「実は、唐津城二の丸にある藤棚は、今の時期にとても美しく花を咲かせるんですよ。わざわざ遠方から藤棚を観る為に唐津へ来る人もいるくらいです。それに、唐津城は桜の名所としても知られており約500本もの桜が植えられています。」
(母里太兵衛)
「それにしても、この城内橋から見える唐津城天守閣は実に美しい。ガイドブックにあるとおり、城の周囲に広がる名勝『虹ノ松原』を鶴の翼に見立てて唐津城を『舞鶴城』と呼ぶのも分かるわい。」
(後藤又兵衛)
「まったくです。さて、太兵衛殿。一応、エレベーターもあるのですが、ここは運動不足の太兵衛殿の為に石段を登って藤棚を愛でましょう。」
(母里太兵衛)
「たく、人を年寄り扱いしおって。でも、今度大殿をお連れする場合にはエレベーターが役に立つであろう。まだまだウォーキングではおぬしには負けんぞ・・・・。おお、これが唐津城の藤棚か!」
(後藤又兵衛)
「見事でしょう?この藤は唐津市の天然記念物に指定されています。」
(母里太兵衛)
「しかし、それがしにはやはり『花より団子』だわい・・・・。いかん、名産の大原松露饅頭を買い忘れた!」
(後藤又兵衛)
「ハハッ。後で駅近くの本店で殿へのお土産に一緒に買いに行きましょう。さあ、あと少しで本丸に入る櫓門ですぞ。」
(母里太兵衛)
「それにしてもゴツい門構えじゃ。唐津藩・寺沢氏の飛び地の天草を含めて石高は12万石。我が黒田藩の4分の1の収入でこんなに立派な門扉や石垣がよく造れたもんだ。」
(後藤又兵衛)
「唐津城と城下の開発については、佐賀藩・熊本藩等の協力を受けた他、建築資材を呼子町の肥前名護屋城から運び込んだといわれています。今でも各藩の協力を得て開発した地域にはその名称、例えば肥後堀などの地名が残っています。」
(母里太兵衛)
「ふーっ。これが天守閣か?」
(後藤又兵衛)
「そうです。福岡城同様に唐津城の天守閣はなかったといわれていますが、昭和41年に郷土資料館として安土桃山様式の五層の天守閣が建てられました。中には寺沢氏以前に唐津を治めた松浦党(松浦水軍)や隠れキリシタン史、唐津藩に関する資料などが展示されています。」
(母里太兵衛)
「やっと最上階か~!おお、ここからは虹ノ松原がよく見える。」
(後藤又兵衛)
「国指定特別名勝・虹ノ松原は、初代唐津藩主・寺沢広高が新田を開発した際に約100万本もの黒松を植林して防風林として活用したのがはじまりです。」
(母里太兵衛)
「唐津はもともと松浦党(松浦水軍)の総帥・波多親の領地だったっけ?」
(後藤又兵衛)
「そうです。平安時代末期の源平の戦いや、鎌倉時代後期のモンゴル軍襲来で活躍した肥前国(佐賀県)北部の武士団が松浦党です。波多親はその松浦党内部でも最大勢力を誇る武将でしたが、太閤様の命令で朝鮮半島に出陣した際に多くの軍令違反を犯して領地没収となり、石田三成と並ぶ太閤様の側近官僚だった寺沢広高に唐津の地が与えられました。」
(母里太兵衛)
「寺沢広高について、それがしはよく知らんのだ。」
(後藤又兵衛)
「彼は、太兵衛殿や私のような武芸に秀でた者とは違いますが、一方で短期間に日本軍総勢30万の遠征拠点・肥前名護屋城を築くなど、築城者として有能でありました。」
(母里太兵衛)
「寺沢広高というと、長崎奉行としてキリシタン二十六聖人の処刑を行ったし、彼の死後に分国(飛び領地)である天草で島原・天草の乱が勃発しているから、どうも為政者として酷薄な人物のような気がするが・・・・。」
(後藤又兵衛)
「しかし、太兵衛殿。この唐津城や虹ノ松原を見て頂ければ、広高が与えられた唐津の地を大切にし、強い思い入れをもって統治を進めたことが分かりますよね?」
(母里太兵衛)
「寺沢広高にとっては、唐津は全く見知らぬ地だったはず。しかし、唐津の地を愛すればこそ現在のような街並みにする種を蒔いたのだな。きっと、我が殿が福岡の地を開いたように・・・・。」
(後藤又兵衛)
「そうですな。いつか殿や大殿も唐津の地にお連れしましょう。桜の季節か、十一月の唐津くんちの季節も良いですな。」
(母里太兵衛)
「そうだ、その時はそれがしが松露饅頭を菓子にして皆さんにお茶を一服・・・・。」
(後藤又兵衛)
「そ、それよりも太兵衛殿は曳山を引く方が似合うのでは?あの詩ですよ!『さ~け~は~の~め~の~め~』って黒田節を奏でつつ・・・・。」
(母里太兵衛)
「そ、そうかあ?」
[続く]
(神屋宗湛)
「友泉亭に来るのも久しぶりですね、叔父さん。寂しげな冬の庭園も良いものですよ。」
(島井宗室)
「それはいいんじゃが・・・・。母里太兵衛様がまだ来ておられぬのじゃよ。」
(神屋宗湛)
「そう言えば・・・・。『宗室殿の一番弟子になって、皆に美味い茶を点てられますように。』とか言っておられた割には。」
(島井宗室)
「しかも、後藤又兵様まで遅刻とは。」
(神屋宗湛)
「太兵衛様はともかく、後藤様もとは・・・・。むむっ、くせ者!」
(黒装束の男①)
「博多三商傑の一人、島井宗室だな?」
(島井宗室)
「いかにも宗室じゃが?」
(黒装束の男②)
「ならば覚悟いたせ!」
(神屋宗湛)
「ひぃ~!命ばかりはお助けを・・・・。」
(黒装束の男②)
「お前は何者だ?」
(神屋宗湛)
「ボクはただの通りすがりの一市民です。命を狙ったり誘拐するならこの悪徳商人の島井宗室一人にして下さいな・・・・。(ガタガタ)」
(島井宗室)
「おい、宗湛!この薄情者!」
(黒装束の男①)
「いわれずともこの槍で一突きよ!」
(神屋宗湛)
「槍で一突き?もしかして母里多兵衛様?」
(黒装束の男①)
「ばれたか。」
(神屋宗湛)
「忍者といえば短剣や打ち刀ですからね~。槍をわざわざ振り回すなんておかしいと思いましたよ!もう一人は後藤様?」
(黒装束の男②)
「いかにも。」
(神屋宗湛)
「な~んだ、脅かさないでくださいよ。叔父さんを囮にしてもボクだけは助からなくちゃ、ってマジに考えたじゃないですか~!」
(島井宗室)
「う~むむむっ、師匠の私をだまして脅かすとは・・・・!かあぁぁーつっっ!お二人とも茶の湯とは精神修養の道ですぞっ!」
(後藤又兵衛)
「すみません。私は反対したのですが、先輩に無理やり押し切られて・・・・。」
(母里太兵衛)
「ずるいぞ、又兵衛。」
(神屋宗湛)
「まあまあ、それくらいに。そうでないと今日のコーナーは余興で終わっちゃいますよ。」
(島井宗室)
「宗湛、お前もお前じゃ!私を囮にして自分だけ助かろうとは!お前というヤツの真の人間性を知った思いじゃ。」
(神屋宗湛)
「はーい。以後気をつけます。」
(母里太兵衛)
「それはそうと、お二人には申し訳なかったが、拙者達の変装もなかなかでござったろう。」
(後藤又兵衛)
「それに、この友泉亭のシチュエーション。時代劇の撮影なんかも出来そうですね。」
(島井宗室)
「まあ、確かに。コホン。この友泉亭は黒田長政様から数えて6代目の福岡藩主・黒田継高公が別荘として建てたものです。」
(神屋宗湛)
「廻遊式の庭園とそれを見渡す大広間に加え、茶室等も備えており、婚前写真の撮影・茶会・会席の場として広く市民に利用されています。」
(母里太兵衛)
「いよいよ、拙者も茶室デビューですな、師匠?」
(島井宗室)
「・・・・。」
(後藤又兵衛)
「茶の湯も結構ですが、私なぞこの殺伐とした世に生きていると、この先に広がる美しい庭園を見るだけで心が洗われますな。」
(神屋宗湛)
「さ、順路はこちらですよ。」
(島井宗室)
「かつては、敷地・建物共に現在の数倍の規模を誇ったそうで、現在残っているのはその一部に過ぎませぬ。」
(母里太兵衛)
「かつての黒田家の別邸という割には質素ですな。」
(神屋宗湛)
「見た目の華美よりも、茶道でいう所の『わびさび』を追求したのでしょう。」
(後藤又兵衛)
「お、池が見えてきましたな。」
(母里太兵衛)
「何ともでかい灯篭だ。これだけ見ていると自分が縮んだ様に感じるわい。」
(神屋宗湛)
「建物が池に映えて綺麗ですね。お、鯉もいる!」
(島井宗室)
「皆様、池を廻って建物の方へどうぞ。」
(後藤又兵衛)
「今度は大きな一枚ものの岩が池の縁に敷いてありますよ。」
(神屋宗湛)
「これは石碑等に重宝された根布川石という岩石なのですが、現在では採石が難しくなり、このようなサイズはもう入手できないそうです。」
(島井宗室)
「この石は後世に黒田家の江戸屋敷から運ばれたものですぞ。」
(母里太兵衛)
「しかし、これが一枚岩とは?運んできた者達はさぞ大変だったろう。」
(後藤又兵衛)
「建物の中も是非見たいものです。」
(神屋宗湛)
「では、そのまま表へ回りましょう。」
(一同)
「お邪魔しま~す。」
(島井宗室)
「さ、入場料として一人200円ずつお支払い下され。」
(後藤又兵衛)
「こちらが大広間ですな?」
(母里太兵衛)
「おお、婚前写真の撮影が行われていますな。」
(神屋宗湛)
「綺麗な花嫁さんだなあ。花婿も幸せそうだ。」
(島井宗室)
「若いお二人の邪魔にならないように見学しましょう。」
(母里太兵衛)
「縁側の向こうに見えているのが、先ほど我々が通ってきた庭園でござるな?」
(後藤又兵衛)
「室内から見ると、また趣が違っていて美しい・・・・。」
(神屋宗湛)
「落ち着きますよね~。」
(島井宗室)
「こちらをご覧下され。これは、以前このコーナーで登場した水鏡天満宮にもあった、第32代内閣総理大臣・廣田弘毅直筆の額です。」
(後藤又兵衛)
「そういえば、第92代内閣総理大臣の麻生太郎氏就任までの永い間、福岡県出身の総理大臣はこの廣田弘毅ただ一人だったんですよね?」
(母里太兵衛)
「さすが、黒田家の別邸跡。凄い額が掲げてあるもんだ。」
(神屋宗湛)
「いやいや、額は廣田弘毅だけではありませんよ。こちらには明治時代に活躍した政治家・金子堅太郎の同じく直筆の額です。金子堅太郎は明治初めに岩倉使節団の一員として海外に留学し、帰国後は憲法の起草等に携わりました。更に、日露戦争の際には再度渡米し。ハーバード大学時代の学友・アメリカ大統領セオドア・ルーズベルトとの縁を頼りにアメリカの世論を日本に好意的なものするべく奔走しました。日露戦争の終戦条約である『ポーツマス条約』締結についても金子とルーズベルトの尽力が大きったと言われています。」
(後藤又兵衛)
「いやあ、福岡が誇る偉大な先人達の直筆の額を見るためだけでも、友泉亭に来る価値がありますよ。」
(母里太兵衛)
「で、こちらの離れが茶室の『如水庵』でござるな?大殿の号を名付けるとは、この多兵衛、ますます茶の点前にテンションが上がりますわい。」
(神屋宗湛)
「・・・・。」
(島井宗室)
「さあさあ、皆さん。お茶の用意が出来ましたぞ。この友泉亭では有料でお抹茶を点てて出して頂けるのです。茶室や大広間を有料で貸し出すサービスも行っているそうです。喫茶店感覚で是非気軽に味わって頂きたい。」
(母里太兵衛)
「あのう・・・・。師匠?タイトルの『美味しいお抹茶』とはもしかしてこれのこと?拙者がお茶を点てるのでは?」
(島井宗室)
「ま、まあその、まずはこの美味しいお抹茶を楽しんで頂いて、それから学んでもらおうかと・・・・。」
(神屋宗湛)
「そ、そうですよ。美味しいお抹茶を他人に点てるには、まずご自身が美味しいお茶を知らなくっちゃ!」
(後藤又兵衛)
「多兵衛殿、何事も精進ですな。」
(母里太兵衛)
「何だかうまく丸め込まれた気が・・・・。」
[続く]
(小早川隆景)
「おはようございます、官兵衛殿」
(黒田長政)
「お~寒い寒い!全く隆景殿は相変わらず爽やかじゃな。ワシなんぞ最近は朝が辛くて辛くて・・・・。」
(小早川隆景)
「何を仰いますか。実は私の方が貴方より13歳も年長。寒さは寄る年波に堪えますよ。イメージ的に読者の皆様は私の方が若いと思われているでしょうが。」
(黒田官兵衛)
「ふん、大きなお世話じゃ。ワシは若い頃に苦労し過ぎたんじゃよ。しかし、本当に寒いのう。」
(小早川隆景)
「全く、誰だ?こんな寒空に県庁と『エンクレスト県庁前』がある『東公園』で待ち合わせしようと言い出したのは?」
(黒田官兵衛)
「あんただ!」
(小早川隆景)
「ところで今日は長政殿は?」
(黒田官兵衛)
「この年老いた父親をほったらかして、一人先に出かけてしまったのじゃよ。あの親不孝者め!」
(小早川隆景)
「むむ、官兵衛殿。向こうから水牛の兜を被ってスケボーに乗った兄ちゃんが来ますぞ!」
(黒田長政)
「父上・小早川様、おはようございます。」
(小早川隆景)
「長政殿でしたか!」
(黒田官兵衛)
「こら、長政!この東公園では他人様に迷惑をける行為は禁止じゃぞ。」
(黒田長政)
「父上、大丈夫ですよ。さっきも、外人さんに声をかけられて写真まで撮られちゃいましたよ。タイムズに載るかな『カミカゼライダー!ナガマサ』とか。」
(黒田官兵衛)
「・・・・。」
(小早川隆景)
「それはそうと、見えてきましたよ!これが東公園のシンボル『亀山上皇像』です。」
(黒田官兵衛)
「随分大きな銅像じゃのう~。海の方を見据えて建立されているそうじゃ。」
亀山天皇(亀山上皇)
1249~1305年。鎌倉時代の第90代天皇。後嵯峨天皇(後嵯峨上皇)の皇子として生まれ、満10歳で兄の後深草天皇(後深草上皇)から皇位を譲られる。但し、これは父の後嵯峨上皇が半ば強要したものであり、以後、後深草上皇の血統である「持明院統」と亀山天皇の血統である「大覚寺統」が皇位をめぐって争うこととなり、更には鎌倉幕府が皇位問題に介入した為、問題は紛糾した。更に、モンゴル帝国(元王朝)が朝鮮半島の高麗国を通じて我国と通行を求める等世情が混乱した為、天皇は各地の神社に命じて国難に対する祈りを捧げさせた。1274年、皇子である後宇多天皇に皇位を譲って上皇となるが、その年には本当にモンゴル軍が襲来(元寇・蒙古襲来)した為、福岡市の箱崎宮に「敵国降伏」の額を奉納して戦勝を祈願した(これは天皇を退いて上皇となった後であった為、東公園にある銅像は「亀山上皇像」となっている)。この額は現在も箱崎宮の楼門に掛けられている。鎌倉幕府を倒した後醍醐天皇は亀山天皇の孫である。
(黒田長政)
「亀山天皇のご生涯もなかなか劇的ですね・・・・。」
(小早川隆景)
「亀山天皇即位に端を発する皇位問題は、後の南北朝時代の遠因でもあります。亀山天皇の孫である後醍醐天皇(大覚寺統)が鎌倉幕府を倒すと、その政治に不満を持つ武士達が今度は足利尊氏公を中心に結託する・・・・。自らの正当性を主張する為に足利尊氏公は、大覚寺統のライバルである持明院統の光厳上皇に接近して支持を受ける。大覚寺統は吉野に移って『南朝』と呼ばれ、京都に残った持明院統が『北朝』と呼ばれるようになったのです。」
(黒田官兵衛)
「確かに皇位問題だけでも深刻じゃが、そこへモンゴル軍が来襲じゃ。ワシ等の時代以上に大変な時代かもしれぬのう。」
(小早川隆景)
「さあ、ご両人。この東公園の見所は亀山上皇像だけではございません。今度はあちらをご覧下さい!」
(黒田官兵衛)
「おお、こちらには日蓮上人像か・・・・?」
日蓮上人
1222~1282年。安房国(千葉県)の出身。幼くして清澄寺に入って修行する。その後は高野山・比叡山・仁和寺等に学び、多くの仏教経典の内、法華経こそが真理であるとの悟りを開き、鎌倉の街で法華宗(日蓮宗)の布教を始める。1260年には「立正安国論」を記して外国からの侵略を予見し、疫病や天災等の国民の苦しみと政治の乱れを鎌倉幕府に直言した。他宗派からの迫害や鎌倉幕府の弾圧にも屈することなく自らの信ずる真理を布教することに努める。死後、後光厳天皇から「日蓮大菩薩」の尊号を、大正天皇から「立正大師」の尊号を贈られた。
(黒田長政)
「亀山上皇像もそうでしたが、この日蓮上人の銅像も海の方を見据えておられますね。」
(黒田官兵衛)
「日蓮上人の謹厳な性格が表情に現れておる。今にも民衆に向かって説法をしそうではないか?」
(小早川隆景)
「日蓮上人は漁師の家に生まれたと云われていますが、モンゴル軍の襲来を予見したところを見ると、本当は海外からの情報を入手する独特の人脈を持っていたのではないかと想像が膨らみます。」
(黒田官兵衛)
「日蓮上人がモンゴル軍の襲来を警告したことから、銅像と隣接する『元寇史料館』にはモンゴル軍(元軍)の武器や鎧が展示されているそうじゃ。」
(黒田長政)
「かつてユーラシア大陸全域を席巻したモンゴル軍の武器や装具が間近に見られるのは貴重ですね。」
(小早川隆景)
「それに、日蓮宗といえば商家からの厚い崇敬を受けていますが、同じく博多商人から厚い崇敬を受ける『十日恵比寿神社』もこの東公園に隣接しているんですよ。」
(黒田長政)
「毎年1月8日~11日の大祭は十日恵比寿と呼ばれ、博多や周辺の人々がたくさん詣でると聞きました。」
(小早川隆景)
「いやあ、その日の人出は物凄いですよ。皆さん、今年一年間の商売繁昌、家内安全、交通安全、漁業繁栄などを祈願するんです。」
(黒田長政)
「来年は私も是非行きたいものです。」
(黒田官兵衛)
「ワシも次回は太兵衛に担いで来てもらうことにしよう。ところで、亀山天皇には銅像が、隆景殿にはご自身が奉納した箱崎宮の楼門が、長政にも同じく箱崎宮の鳥居が残っているのに、『戦国最強のナンバー2』と呼ばれたワシの銅像が無いとはどういうことじゃ?」
(黒田長政・小早川隆景)
「・・・・。」
[続く]
(島井宗室・神屋宗湛)
「あけましておめでとうございます、小早川様!」
(小早川隆景)
「あけましておめでとうございます。おや、黒田家御一行は?」
(黒田長政)
「ここにおりますぞ、小早川様。あけましておめでとうございます。父はワガママ言って輿に乗っておりますゆえ、間もなく・・・・。お、あそこに・・・・。」
(黒田官兵衛)
「太兵衛、急ぐのじゃ!新年早々大スターの黒田官兵衛が遅刻しては話にならぬ。」
(母里太兵衛)
「そうはいっても、大殿!本当の大スターならばファンを待たせるものでは?」
(黒田官兵衛)
「やかましい!」
(母里太兵衛)
「だいたい、こんな重い輿を拙者一人で背負わねばならんのじゃ?又兵衛、おぬしも後輩なら手伝わんかい!」
(後藤又兵衛)
「しかし、私と太兵衛殿の手が両方とも塞がったら、誰が曲者に備えるのです?第一、戦場ではともかく、力では太兵衛殿が国士無双(並ぶ者のない)豪傑とされているではありませんか。」
(母里太兵衛)
「何か騙されたような・・・・。」
(黒田長政)
「太兵衛、又兵衛、こっちじゃこっちじゃ。」
(小早川隆景・島井宗室・神屋宗湛)
「あけましておめでとうございます!」
(黒田官兵衛)
「あけましておめでとう。今年もよろしゅうな。」
(黒田長政)
「ところで父上、今年の初詣は箱崎宮ということですが?」
(母里太兵衛)
「それは勿論、拙者に境内で美味いお茶を点てさせるためでござろう。」
(島井宗室)
「母里様、そうではございますまい。この神社は鶴岡八幡(鎌倉市)・宇佐八幡(宇佐市)と並ぶ日本三大八幡宮の一つであり、筑前国一宮という格式を与えられた県内でも第一級の神社なのですぞ。」
(黒田官兵衛)
「太兵衛よ、宗室殿のいうとおりじゃ。せっかく長政が福岡の地を頂いたのじゃから、この由緒ある神社に是非皆で参詣したいと思うておった。」
(神屋宗湛)
「それに、筥崎宮は古来から海外交流の拠点であり、ボク達博多商人にとっても大切な場所なんです。」
(黒田長政)
「第一、新年早々太兵衛の茶を飲んで全員腹を壊したら、このコーナーは閉店になってしまう。」
(母里太兵衛)
「残念。」
(小早川隆景)
「さ、皆でうち揃って参りましょう。参道がかなり長い上に人込みも激しいようですから、はぐれぬように。」
(後藤又兵衛)
「随分大きな鳥居ですなあ。」
(母里太兵衛)
「海沿いに向かって小さな砂浜があるのは何でござろう?」
(神屋宗湛)
「太兵衛様、あれはお清めの砂をとる『お潮井浜』ですよ。」
(黒田官兵衛)
「さすがは筑前国一宮じゃ。」
(島井宗室)
「ゼェ、ゼェ。それにしても長い参道じゃ。年寄りには堪えますなあ。」
(黒田官兵衛)
「宗室殿、何故そこでワシを見るんじゃ!と、言いたいところじゃが、本当に体に堪えるわい。これ、太兵衛。輿を用意せい!」
(母里太兵衛)
「それよりも、拙者が点てた茶で一服・・・・。」
(黒田長政)
「父上と宗室殿を殺す気か!」
(神屋宗湛)
「そんなことよりも、楼門と一ノ鳥居が見えてきましたよ。」
(後藤又兵衛)
「大殿、この立派な石造りの鳥居をくぐれば本殿まであと少しでございます。あれ、この鳥居は殿が寄付したのですな?」
(黒田長政)
「いや、実は・・・・。」
(黒田官兵衛)
「(ギロリ)長政よ、ワシを差し置いてお前だけ目立つでないぞ!」
(黒田長政)
「・・・・。」
(島井宗室)
「さ、この見事な楼門をご覧ください。これは小早川様が造営されたものですな。私も筥崎宮の氏子の一人としてとても誇らしく思っています。」
(神屋宗湛)
「『敵国降伏』の額がかけられているでしょう?あれは、鎌倉時代にモンゴル軍が攻めてきた際、亀山天皇が戦勝を祈願して奉納した額です。」
(黒田官兵衛)
「何だか、ワシ以外の人間ばかり目立って面白くないな~。帰ろうかな。イジイジ・・・・。」
(母里太兵衛)
「大殿、そう気を悪くせずに。せっかくですからこの本殿でお参りをしましょうぞ。」
(後藤又兵衛)
「この朱塗りの本殿は、かつて中国地方・北九州を支配した戦国大名・大内義隆公が建立したそうですよ」
(小早川隆景)
「年の順でお参りはまず私から・・・・。今年もよき友に恵まれますように。」
(黒田官兵衛)
「相変わらず優等生的な・・・・。よし、ワシは戦国一の知恵者として平成の御世で再認知されますように。」
(島井宗室)
「この玄界灘や外洋を通行する船が安全に寄港できますように。」
(母里太兵衛)
「宗室殿の一番弟子になって、皆に美味い茶を点てられますように。」
(島井宗室)
「・・・・。」
(後藤又兵衛)
「殿とケンカせずにやっていけますように。」
(黒田長政)
「優秀な二代目として父上に安心してもらえますように。」
(神屋宗湛)
「叔父さんに負けずに商売に精を出せますように。」
(黒田官兵衛)
「さて、この後はどうするかのう?行きたい所がある人?」
(小早川隆景)
「私は、官兵衛殿達と先程の『敵国降伏』の額を献じた亀山天皇像がある東公園に行こうかと。」
(島井宗室)
「私と宗湛は、太兵衛様にお茶の稽古をつける為に友泉亭へ行こうかと。後藤様もいかがですか?」
(母里太兵衛・後藤又兵衛)
「是非とも。」
(黒田官兵衛)
「それぞれ名案じゃ。どれ、今後の企画も決まったところで軽く新年会にするか?」
(小早川隆景)
「それこそ名案。でも、各々飲酒運転だけはいけませんぞ!」
(神屋宗湛)
「大丈夫。参道の途中に地下鉄の出口がありますよ。」
(黒田官兵衛・島井宗室)
「だったら最初から年寄りを歩かせるなっ!」
[続く]
(父)
「さあて、今日はこの戦国最強の軍師・黒田官兵衛が皆様に関ヶ原の戦いでの毛利氏の動向を・・・・。って、島井宗室殿と神屋宗湛殿は?」
(子)
「何だか前回の最後が気まずかったみたいで、暫く物忌み(外出を控える)だそうです。」
(父)
「何じゃと?ワシの話をすっぽかすとは!」
(子)
「でも父上、本日は前回に引続き関ヶ原の戦いのお話・・・・。現地にいた私と、本日の主人公である吉川広家の叔父である小早川様が説明すれば読者の皆様には十分なのでは?」
(父)
「やかましい!」
(隆)
「まあまあ。ところで、本日は我が毛利が何故関ヶ原で動かなかったかを、我が甥・吉川広家を中心にお話しするということで・・・・。しかし、その為にはどうしてもあの時の話をしなければなりません。」
(父)
「吉川広家が何故家康公と連絡を通じたのか、ということじゃな。」
(子)
「つまり、それは『本能寺の変』の後の太閤様と毛利家の戦いについてですね。」
(隆)
「ええ。早くに亡くなった長兄・毛利隆元も含めて一応?我々は仲の良い兄弟だったのですが、当時太閤様(豊臣秀吉のこと)と官兵衛殿に包囲された高松城を巡って私と次兄・吉川元春は意見を戦わせました。」
(父)
「ワシと太閤様が本能寺の変を隠して毛利家に和平交渉を持ちかけたからじゃな?」
(隆)
「そうです。官兵衛殿の罠にかかり(笑)、我が毛利軍の将・清水宗治は味方兵士の命を救う為に切腹して高松城を明け渡しました。それが太閤様からの和平交渉の条件だったのです。」
(子)
「確かに。」
(隆)
「ところが、本能寺の変で信長公、つまり織田軍団の総帥が亡くなっていたことを知った次兄・吉川元春は『羽柴(豊臣)にだまされた!』と激怒し、太閤様を追撃することを主張しました。」
(子)
「父上の悪だくみで兄弟げんかになるとは・・・・。」
(父)
「だまれぇっ!」
(隆)
「そのときは、私の主張に次兄が折れ、以後太閤様が信長公の後継者となられた後も、わが毛利がその和平条約を破ることはありませんでした。」
(父)
「しかし、当事者のワシが言うのも変な話じゃが、当然吉川元春殿は納得いかなかったであろうな。」
(子)
「父上だったら絶対根に持ちますよね?」
(父)
「・・・・。」
(隆)
「その後、次兄・吉川元春は太閤様の九州征伐従軍中に病死し、長男・吉川元長も間もなく亡くなった為、元長の弟である吉川広家が跡を継ぐことになりました。広家は吉川家当主として私と共に本家の毛利輝元を支えることになりましたが、『羽柴(豊臣)にだまされた!』という次兄・元春の考えは広家に強く影響し、毛利軍団内部でも豊臣家と一定の距離を置く独自の一派を形成しました。」
(子)
「私は一緒に朝鮮半島での戦に従軍したこともあって彼と非常に親しくなりました。なかなか出来るヤツで、吉川元春殿の息子だけあって剣を持てばこの長政に劣らぬ猛者、しかも祖父は戦国一の知恵者・毛利元就殿、叔父も小早川殿ですからとても機転が利き、敵に回せば油断できぬ相手だと思いました。」
(父)
「長政とて天下の名軍師、この黒田官兵衛の長男であろう。その割には・・・・。」
(子)
「えっ?」
(隆)
「まあまあ。しかし、長政殿に我が甥をそこまで高く評価して頂いていたとは、この隆景、実に嬉しいですぞ。」
(父)
「じゃが、石田三成ら奉行とは気が合わなかったようじゃな・・・・。」
(子)
「確かに。我等と同様に戦功を三成に握り潰されたこともあったようですし、心底では石田三成ら奉行が実務を取り仕切る『豊臣政権』を信用してはいなかったようです。そういえば、『本家の毛利輝元はお人好しなので、三成に良いように使われぬように自分がしっかりしていなければ・・・・』と言っていましたぞ。」
(隆)
「うーむ。我が甥ながら、完全な爆弾発言ですね。しかし、長政殿の影響もあって広家がこの時既に反三成・親徳川の思いを強くしていたのは間違いないようですね。」
(父)
「それにしても、長政の影響を受けるとは吉川広家も案外根が単純なのかのう?」
(子)
「父上~!それはあんまりですぞ~!グスン。」
(隆)
「それはさておき、我が甥・吉川広家は間近に迫る関ヶ原の戦いにおいて毛利本家が敗者にならぬよう、毛利家が徳川寄りの立場であることを長政殿を通じて家康公に伝えたわけですね。」
(父)
「ところが、そんな広家の思いとは反対に、自分が人気の無いことを自覚していた三成は、自分たち西軍の総大将として毛利輝元を大坂城に招いた。大谷吉継の策らしいが、広家にとっては寝耳に水であったろう。」
(子)
「要は西軍により多くの大名を引き入れる為の広告塔ですからね。」
(隆)
「以前、太閤様と私の間で和平の橋渡しをした外交僧・安国寺恵瓊(以下、恵瓊)が、毛利家の一族・重臣の意向を無視して輝元を丸め込んで西軍総大将にしてしまったのです。確かに、広家の言うとおり輝元はお人好しでした。」
(父)
「結局、毛利輝元は直接関ヶ原へは行かず、代理として毛利秀元(輝元の養子)に2万近い兵を授けて出陣させたのであったな?」
(子)
「毛利秀元は、同じ西軍の長宗我部盛親・恵瓊らと共に南宮山に陣取り、前衛として広家が布陣しました。」
(隆)
「南宮山に展開した兵力は毛利・長宗我部を主力に約3万というところですか?」
(子)
「そうですね。毛利軍では総大将代理の秀元と副将格の広家の意見が調わなかったようですが、一方の長宗我部盛親も本来東軍に味方するつもりが時期を逃がしたといわれており、私の感覚では毛利・長宗我部ともに西軍に参加する意思は薄かったように思います。」
(父)
「恵瓊は三成と親しい間柄。恵瓊が南宮山に布陣したのは、旧毛利家臣としての縁よりも、三成から送られた監視役じゃな。」
(隆)
「前回でもお話ししましたが、毛利・小早川・長宗我部等の西軍の大大名が戦闘に参加していなかったにもかかわらず、開戦から午前中いっぱいまでは西軍が東軍の半数ほどの兵力で善戦していましたね?」
(子)
「三成が小早川秀秋に戦闘参加の督促をしたのと同様に、恵瓊も毛利秀元に戦闘参加を要請しますが、これを最前列の広家が拒みます。」
(父)
「総大将代理の毛利秀元がその場をまとめ切れず、オロオロしているうちに松尾山の小早川勢が裏切り、あっという間に西軍全体が崩壊したわけか?」
(隆)
「広家の思惑通り東軍が勝利し、西軍は敗北。『毛利家は形だけの西軍総大将だった』と家康公に対して言い逃れが出来ると広家は安心したでしょう・・・・。確か、長政殿からも『多分毛利家に責任が及ぶことはないだろう』という手紙が届いたそうですから。」
(子)
「しかし、実際に広家の苦難が始まったのはこの後でした。」
(父)
「どうせ、家康公が『毛利輝元が西軍の首謀者だったという動かぬ証拠が見つかった!従って毛利輝元を処罰しないわけにはいかない!』と言い出したのであろう。ワシが家康公ならばそうするぞい。」
(隆)
「さすがは官兵衛殿。余りの腹黒さにこの隆景、恐れ入るばかりです。」
(父)
「じゃかましいワイ!」
(子)
「まあ、それはそうと・・・・。父上の予想通りの内容が家康公から間もなく通達され、書面には『毛利家の領地121万石を全て没収し、その内の周防国・長門国(いずれも山口県)計36万石を吉川広家に与える!』と書かれていました。」
(隆)
「何と!やはり家康公は広家が渡り合える相手ではなかった・・・・。」
(父)
「しかし、それだけ家康公は広家を信頼したということでは?」
(子)
「私にも何とも言いかねますが、ここからが広家のエライところです。広家は家康公に対して必死に嘆願しました。『今まで自分が東軍寄りの行動を取ってきたのは全て毛利家を想い、毛利家を正しい方向導く為です。決して私自身の立身や領地を望んでのことではありません。何卒今回だけは毛利家を許し、周防国・長門国をあくまでも本家の毛利輝元に対してお与え下さい。』と。更に『万が一、輝元が再び家康公に逆らうようなことがあれば、この私が先頭に立って本家の従弟といえども遠慮せずに毛利輝元を成敗してご覧に入れます。』とも付け加えました。」
(父)
「ほう、これはこれはどうして・・・・。なかなか出来た奴じゃ・・・・。」
(隆)
「私は甥である広家の力量を見誤っていたようですね・・・・。」
(子)
「そうでしょう?本当に広家は立派な武将です。家康公も吉川広家のこの言葉に動かされました。改めて、周防国・長門国を毛利輝元に与えることをお認めになりました。」
(父)
「広家のお手柄で毛利家は存続を許されたわけじゃが、広家の行動は毛利家の一部からは理解されず、広家を『関ヶ原で毛利家を敗戦に導いた張本人』呼ばわりする者もおり、広家は随分肩身の狭い思いをしたそうじゃな。」
(隆)
「関ヶ原の戦いでの広家の行動に、かつての本能寺の変直後の私と次兄・吉川元春との意見対立を重ねて『小早川隆景の考えを引き継いだ親豊臣派の恵瓊・毛利秀元と、吉川元春の考えを引き継いだ反豊臣派の広家の争い』と見なす人もいます。」
(父)
「実際、隆景殿も広家の行動を許し難く思っているのでは?」
(隆)
「ハハッ。実は私はそうは思っていないんです。」
(子)
「えっ?」
(隆)
「以前お話ししたように、私は、太閤様こそが本能寺の変後の天下統一を成し遂げる人物として和平を結びました。それは、毛利家の安全を考えてのことは勿論ですが、毛利家は天下を治めるに相応しい人物と手を結び、平和な世の中を築くことに貢献すべきという、私なりの思いもありました。あの時私が天下を治める人物として太閤様を認めたように、広家も家康公が天下を治めるに相応しい人物として認めたのだと思います。私は広家のこの判断を決して間違っていなかったと思っているのです。」
(父)
「なるほど。仮に関ヶ原の戦いで西軍が勝利して徳川家が滅びたとして・・・・」
(子)
「伊達政宗や島津義久はどちらが勝っても良いように、かなり余力を残していたようです。」
(隆)
「官兵衛殿も、万が一関ヶ原の戦いで東軍が敗北して長政殿が戦死しても良いように、ポケットマネーで1万近い兵力を集めていたではございませんか?」
(子)
「うう、父上酷い。」
(父)
「泣くな、長政!あくまでも最悪の事態を想定するのは戦国の世の習わしじゃ!それはそうと、仮に西軍が勝利しても、それらの野心家が天下を狙って新たな行動を開始したかもしれん。」
(隆)
「それに、豊臣秀頼様を後見する親族や有力者として宇喜多秀家や上杉景勝が大阪城に入城し、奉行に復職した三成と共に政務を取りはじめ、お人好しな輝元は弾き出されていたかもしれません。」
(子)
「それにしても、小早川殿が広家を評価しているとは思いませんでした。」
(隆)
「毛利本家の為に必死に働いたのに、身内からも裏切り者呼ばわりされ、我が甥ながら実に可哀そうな男です。」
(父)
「しかし、隆景殿。広家の立場を十分に評価した人物がもう一人いたから良いではないか?」
(隆)
「えっ、それは誰です?」
(子)
「家康公ですよ。今も残る広島県の岩国城がその証です。つまり、徳川幕府を開いた家康公は諸大名の軍事力強化を防ぐ為、築城を誓言すると共に、一国一城令を出されました。」
(父)
「この命令は、1つの大名家が2以上の城や砦を持つことを禁じたものじゃが、毛利家は萩城を保有していたので、毛利家の家来である広家は本来城を取り壊さなければならない。しかし、家康公は広家が引き続き岩国城を保有することを特例で認めたのじゃよ。」
(隆)
「それで岩国城が・・・・。」
(子)
「参勤交代制度もそうです。この制度は1年おきに全ての大名が自分の領地と江戸を行き来しなければならないというもので、各大名の経済力を削ることが本来の目的でした。しかし、同時に徳川幕府将軍の居城である江戸に行列を率いて入城できるという、大名としての名誉を認めたものでもありました。」
(父)
「家康公は、広家を毛利家の一員としてではなく、『岩国領主・吉川広家』として独自に江戸へ参勤する名誉を認めたのじゃよ。」
(隆)
「そうですか。家康公はそこまで・・・・。」
(子)
「広家もきっと溜飲が下がったことでしょう。」
(父)
「隆景殿、いつか桜の時期に脚を延ばして岩国城と錦帯橋に行きたいのう。」
(子)
「父上、それは無理というものですよ。隆景殿は『筑紫大名(黒田官兵衛)が休息地を求めても貸すな』と遺言しているんですから・・・・。」
(隆)
「こ、こら!シーッ!」
(父)
「(ギロリ)・・・・」
[続く]
(又)
「初回の信長公、第2回の明智殿に続き、今回は太閤様の番ですな。」
(湛)
「『アメリカンドリーム』という言葉がありますが、太閤様ほど『ジャパニーズドリーム』という言葉が似合うリーダーもいないでしょう。しかし、ここでは太閤様の出世物語とは少し離れた目で見なければなりません。」
(又)
「というと?」
(室)
「つまり、我々商人が注目すべきは太閤様の卓越した利益調整能力です。太閤様が本能寺の変(1582年)から僅か8年(1590年の小田原城開城)で天下統一を成し遂げた陰には大きな理由がありました。天下統一事業の速さの秘密は、『相手に出来るだけ好条件を出して味方につけ、戦を避ける』ということだったようです。まるで現在の企業買収のようですね。競争相手を買収し、傘下企業にしてしまう。それが無理なら一戦交えて力の差を見せつけ、相手が態度を変えるのを待つ。」
(又)
「なるほど・・・・。太閤様の『勝利の方程式』という訳ですな。」
(湛)
「うまいこと言いますね・・・・。さて後藤様、太閤様が戦った最も手強い相手とは誰でございましょう?」
(又)
「毛利家、長宗我部家、島津家、北条家といずれも強敵だったはずですが、やはり最も手強かったのは家康公では?」
(室)
「その通り。先程の『勝利の方程式』が唯一通じなかった相手が家康公でした。」
(湛)
「大きな声では言えませんが、太閤様はそれ程戦上手だったわけではないんです。むしろ下手っぴでした。太閤様は織田家の武将であった頃も含めて、自分より多い兵力の相手と戦った経験が少ないんです。しかも、基本的に旧織田軍団であることから鉄砲の充実等、兵士の装備も優れており、兵力の差を生かせば太閤様の戦下手は問題になりませんでした。」
(室)
「ところが・・・・。本能寺の変後に戦うことになった徳川家だけは違いました。東海地方の5カ国を治める当時の徳川家に対し、柴田勝家殿・明智光秀殿を倒して旧織田家の勢力をまとめ上げ、毛利家をも傘下に入れた太閤様は近畿・中国地方の大部分を支配下にいれており、豊臣家の圧倒的優勢かと思われました。」
(又)
「太閤様が集めた兵力6万対し、徳川軍はたった1万5千だったとか?」
(湛)
「しかし、徳川家の1万5千はただの1万5千ではありませんでした。実は信長公が亡くなる直前、織田・徳川連合軍は甲斐国(山梨県)に攻め入り、武田信玄公の跡を継いだ武田勝頼を滅ぼしました。その際、信長公は武田家に仕えていた武士を皆殺しにしようとしましたが、家康公はかつての『無敵・武田軍団』を担っていた勇者達を惜しみ、多くを助け出して家中に匿っていました。この為、旧武田家臣団の大部分は徳川家に参加していたのです。」
(又)
「なるほど。たとえ、兵力では豊臣家が有利であっても徳川家には『無敵・武田軍団』の精鋭が加わり、そのDNAを受け継いでいたわけですな?」
(室)
「それだけではありませんぞ。足軽(半農の最下層の武士)の子として生まれた太閤様には古くから仕えるベテラン武将が殆どいませんでした。これに対し、小さいとはいえ古くから『松平党』を名乗り、その武士団の盟主である徳川家には有名な徳川四天王をはじめ、徳川家に命を捧げた猛者が揃っていました。しかも、野戦指揮官としての経験は太閤様より家康公の方が明らかに豊富でした。」
(又)
「つまり、数はともかく軍の質は徳川家有利だったと?」
(湛)
「そうですね・・・・。そして、太閤様は尾張国で小牧・長久手の戦いに臨みますが、経験と兵質の差がモロに影響し、地元っ子の徳川軍に振り回された挙句、待ち伏せに遭って兵力の半数を失う大損害を受けました。その後、太閤様は徳川家と一旦は休戦したものの、家康公は太閤様を天下人とは認めず、大阪城にも顔を出しません。」
(室)
「徳川家を味方に付けない限り、天下統一はありえない。しかし、戦で勝つのは難しい。そこで、太閤様は利益調整能力をフルに発揮して徳川家を取り込もうとします。まず、天皇から権中納言(閣僚クラス)という官位を家康公に出して貰います。更に、太閤様には朝日姫という妹がいました。40代で既に結婚していましたが、太閤様は『天下の為だ』と言いくるめて離婚させ、強引に家康公と再婚させました。そして、理由をつけて自分の実母・大政所を徳川家に預けました。」
(又)
「朝日姫も大政所も事実上の人質ですね?」
(湛)
「その通り。そして、太閤様は上京した家康公を密かに訪ねて言い含めます。『徳川殿、形だけでも皆の前で私に頭を下げてくれぬか』と。ここまで言われては家康公も拒めず、徳川家は豊臣家に従うことを誓いました。太閤様の天下統一事業は一般的に1590年の小田原城落城を以って完成と見なしますが、徳川家が傘下に入ったこの瞬間こそ天下統一へのターニングポイントと言って良いでしょう。」
(又)
「太閤様の卓越した利益調整能力で短期間に天下統一の道が定まったのですね。ところで、他にこのカテゴリに属する御仁は?」
(室)
「足利幕府初代将軍・足利尊氏公が入るでしょうな。それから、我々よりずっと後の世代ですが、明治時代の宰相・原敬もそうでしょう。」
豊臣秀吉
1537~1598年。尾張国(愛知県)の足軽(平時は農作業に従事する下級武士)の子として生まれるが、17歳頃までの素性は殆ど不明である。当初は小者として織田信長に仕え始めるが、城内の経費削減や外壁補修工事等で卓越した才覚を発揮し、柴田勝家や丹羽長秀・佐々成政らと並ぶ武将として取り立てられる。その後、中国地方攻略を命じられ、毛利氏及びその配下勢力との戦いで播磨国(兵庫県)三木城・因幡国(鳥取県)鳥取城等の要衝を次々と攻略する。備中国(岡山県)高松城を包囲中に本能寺の変を知り、黒田官兵衛の助言で京へ反転し、明智光秀を山崎の戦いで破り、更には対立した柴田勝家を賤ヶ岳の戦いで滅ぼす。これらの戦いで信長の後継者として地位を固めた後は信長の天下統一事業を継承し、徳川家との合戦・和平を経て島津・伊達等の有力大名を従え、小田原城の後北条氏を滅ぼして遂に天下統一を実現した。しかし、晩年の行動には精彩を欠き、養子・豊臣秀次の粛清、更には無謀な朝鮮半島出兵「文禄・慶長の役」を強行した。最期は幼い後継者・豊臣秀頼の将来を心配しながら亡くなるが、不安は的中し、秀吉の死後十数年で豊臣家は大阪夏の陣で滅亡する。
宗湛評価[長期ビジョン:4 困難克服度:5 パートナーシップ:4 部下からの信頼:5 最期・子孫幸福度:3 一般ウケ:5]
足利尊氏
1305~1358年。鎌倉幕府の有力御家人・足利家の跡継ぎとして生まれる。幕府の執権北条氏の命令で、後醍醐天皇による討幕運動の鎮圧を命じられて京都へ出陣するが、途中で方針を転換し、鎌倉幕府打倒の兵を募る。やがて、鎌倉幕府が天皇監視の為に置いた京都の奉行所「六波羅探題」を攻め落とし、天皇から功績を賞される。しかし、後醍醐天皇による天皇親政「建武の親政」が行き詰まると、次第に天皇と距離を置いて独自の行動を強め、一時的に京を制圧して天皇側近の新田義貞家らの「南朝」と対立する。尊氏は「北朝」の後光厳天皇らに接近し、あくまでも全国の武士の利益の代表者として、自身に従う武士には過分な報償を与えた為、多くの武士が味方し、やがて征夷大将軍(将軍)として足利幕府を開いた。その結果、南北朝の争いは尊氏らの「北朝」が戦いを優勢に進め、楠木正成・新田義貞・北畠顕家を次々に倒すが、一方で「北朝」内部でも尊氏の弟・足利直義と重臣・高兄弟が争い、直義が高兄弟を殺害し、その直義を尊氏自身が滅ぼすという内紛に発展した。この混乱の最中、後醍醐天皇の皇子・懐良親王が肥後国(熊本県)の菊池氏・阿蘇氏らと共に南朝軍を率いて九州各地を攻略。尊氏は自ら九州に入って反撃することを企てるが、果たせぬままに京都で病死した。その後、将軍職は次男の足利義詮が引継ぎ、十五代にわたって足利将軍家として続くが、その歴史はかつて尊氏に従った武将たちの内紛と離反の繰り返しであった。
宗湛評価[長期ビジョン:4 困難克服度:4 パートナーシップ:3 部下からの信頼:3 最期・子孫幸福度:2 一般ウケ:4]
原敬
1856~1921年。岩手県出身。わが国初の本格的政党内閣を組織し、爵位の授与を度々断った為、「平民宰相」と称された。幕末~明治初期にかけての動乱「戊辰戦争」で幕府方に味方した南部藩家老の家柄に生まれる(従って彼は上級士族の出身であり厳密には「平民宰相」ではない)。天皇に敵対したとされる南部藩出身であった為、苦学の末に新聞記者・農商務官僚・外務官僚と職場を転々とする。しかし、農商務大臣や外務大臣を歴任した陸奥宗光(欧米との不平等条約改正や日清戦争で活躍)の信任を得て徐々に頭角を現し、政党「立憲政友会」に入党してやがて総裁となり、1918年に第19代内閣総理大臣に就任した。彼は、薩摩藩・長州藩出身者(藩閥)の影響が強い「藩閥政治」に対抗し、教育改革・鉄道の拡充等に力を注いだ。しかし、教育改革は試験制度によって藩閥出身者を排除する目的もあり、また鉄道の拡充は政党のマニフェストとして専ら選挙対策の色が濃く、実際に政友会の候補者は選挙の際に鉄道の測量技師を連れて歩き、「政友会の候補が当選すれば、その地域に鉄道が通る」と強調したことから「我田引鉄」と呼ばれる利益誘導政治、ひいては金権政治の源流とも評される。1921年、東京駅で国鉄職員に暗殺された。
宗湛評価[長期ビジョン:4 困難克服度:5 パートナーシップ:4 部下からの信頼:4 最期・子孫幸福度:2 一般ウケ:4]
(又)
「確かに足利尊氏公は、鎌倉幕府滅亡後の混乱の時代に武家の棟梁として武士の利益保護に努めて各地の武士を味方に引き入れて新たな武家政権・足利幕府を開いたのですから、このカテゴリに入るのは間違いありませんな。しかし、原敬は・・・・?」
(湛)
「原敬は一般に『平民宰相』と呼ばれ、爵位の授与も辞退していることから権勢欲とは無縁な人物のように思われています。」
(又)
「当時の藩閥政治(明治維新に功のあった旧薩摩藩・長州藩出身者による政治)を抑えて政党政治の道を拓いた高潔な人物として知られていますからね。」
(室)
「確かに原敬は産業の振興や高等教育の充実等、高い目標を掲げて政治に取り組んだ反面、選挙戦では利権誘導型の施策も目立った。例えば、原敬と彼の率いる政党・政友会が掲げた『鉄道網の充実』は、裏を返せば『政友会に投票すれば、その地方に鉄道が敷かれる』と人々に訴えかける手法であり、典型的な利益誘導であった。実際に、当時の政友会の候補は鉄道測量技師を連れて遊説していたそうな。また、政党政治・議会の大切さを唱えながら、一方で全ての成人男子に選挙権を与える法案(いわゆる男子普通選挙)に反対する等の矛盾点もあった。また、藩閥政治と戦うポーズを見せながら、一方で山県有朋ら長州藩閥との利益調整も行った。」
(湛)
「しかし、そのような利益調整の一方で、確かに大正デモクラシーと呼ばれる民主指向の安定期を築き上げたのは間違いありません。」
(又)
「我等武士にとって、『利益調整』『利益誘導』というと、何だか卑怯な行いのような気がしますが、太閤様や足利尊氏公のように戦乱の時代を早く終わらせたり、原敬のように民主的な時代の幕を開けたりすることが出来るのであれば実に優れた才能であり、優れたリーダーのように思えますな。」
(室)
「但し、これには大きな問題もあるのです。彼らの利益調整能力は彼ら一代限りの名人芸のようなものであり、その後継者たちはそれほどの利益調整能力を発揮することは出来ませんでした。」
(湛)
「そして、彼等の死後、お互いの利益という絶妙なバランスで支えられていたそれぞれの政権は崩れていきました。太閤様は後継者の秀頼君の成長を待たずして亡くなり、諸大名の利益を調整できなくなった豊臣家はやがて徳川家によって滅ぼされました。」
(又)
「そういえば、足利幕府については、尊氏公が余りにも気前良く武士達に土地を分配しすぎた為に足利幕府自体の領地収入が少なく、経済力・軍事力共に弱体でした。そして、我々が生まれた時代には各地の大名や武士団が幕府の命令に従わなくなっていました。」
(室)
「尊氏公の孫で足利幕府三代将軍・足利義満公が海外との貿易振興を掲げたのも、財政を領地収入だけに頼れないという裏事情があったといいますからな。」
(湛)
「そして、大正10年に原敬が暗殺されると大正デモクラシーにも陰りが見え、政党政治は軍部の前に勢いを失っていきました。」
(又)
「なるほど。利益調整や利益誘導による統制には限度がある、つまり『人の心は物では買えない』ということでしょうな。」
(室)
「しかし、長政様も利益調整の能力に長けておられたのでは?関ヶ原の戦いで小早川秀秋殿が東軍に味方し、毛利軍が不戦を保ったのは全て長政様の功績ではありませぬか。」
(又)
「確かに。大殿は知略で太閤様を助けて戦国の世を終わらせたお方。その子である我が殿も少なからずそのような才覚をお持ちです。しかし、逆にその器用な才能に溺れられぬよう心配に思うこともございます。」
(湛)
「大丈夫でしょう。長政様はあくまでも真っ直ぐなお方ですから。『策士、策に溺れる』ようなことはないのでは?」
(室)
「左様。私にも長政様は物欲で人を動かすタイプの方には見えませんぞ。」
(又)
「そう言われると安心です。」
(湛)
「一番タチが悪いのは『物欲にとりつかれ、万事を物欲によって判断するような人物』ですよ!」
(室)
「そうじゃ、そうじゃ!」
(又)
「例えば?」
(湛)
「例えば、いい年をして燃え盛る本能寺から『貴重な文化財が燃えるから』とか言って掛け軸だけかっぱらってくるような奴ですよ!」
(室)
「・・・・って、それは私とお前だろうが!」
(湛)
「こりゃ又失礼!」
[続く]
天下三陪臣(5)・・小早川秀秋と関ヶ原の戦い 後編
(室)
「前回は小早川様の養子・小早川秀秋殿が西軍に参加して関ヶ原の戦場へ向かうところまでお話頂きましたな?」
(湛)
「ここでは、西軍の布陣について小早川様からご説明を。」
(隆)
「三成率いる西軍は、関ヶ原をぐるりと囲むように笹尾山(石田隊)・松尾山(小早川隊)・南宮山(毛利隊他)等の高台に布陣し、関ヶ原への街道を封鎖しました。」
(湛)
「では、東軍は関ヶ原に半ば包囲された状態で進軍したのですね?」
(隆)
「そういうことになりますね。兵力は家康公率いる東軍が7万余り、西軍が約8万2千だったといいます。それまでの戦況は、西軍が近畿最大の東軍方拠点・伏見城を攻略し、一方の東軍も岐阜城を占領して互いに一勝一敗という状態でした。」
(室)
「兵力は少し西軍が多いようですが、東軍には徳川秀忠様(後の徳川幕府二代将軍)率いる軍勢三万が合流する予定になっていたそうですし、西軍には小早川秀秋殿のように東軍への裏切りを約束した武将も複数いたそうで・・・・。」
(隆)
「そうですね。確かに軍勢の戦意においては、西軍は部隊ごとの格差が大きく違ったようです。」
(湛)
「かくして開戦ですね?」
(隆)
「戦いは東軍の先鋒・福島正則隊が西軍最強の宇喜多秀家隊に突撃することで始まりました。東軍が家康公直卒の部隊を除いて緒戦から総力を尽くしたのに対し、午前中に戦闘に参加した西軍部隊は全体の4割程度でしたが、宇喜多隊・小西行長隊・大谷吉継隊等の西軍主力部隊は大健闘しました。更に、石田三成自身は戦下手の為(笑)、勇将・島勝猛に自軍の指揮を任せていましたが、勝猛の名采配に東軍は苦戦を強いられました。」
(湛)
「西軍優位の布陣については後日談がありまして、明治時代に陸軍近代化のため来日したドイツ軍の有能な参謀メッケル少佐は、関ヶ原の戦いの布陣図を見せられて『これは西軍の勝利だろう?』と即答したそうです。」
(隆)
「近代陸軍の育ての親となった軍事のエキスパートの目から見ても、西軍優位の配置だったということですね。」
(室)
「おまけに、東軍後続の徳川秀忠軍は、関ヶ原から遠く離れた信州上田城で真田昌幸・信繁(真田幸村)父子に足止めされ、到着の見込みが大幅に遅れていたそうで。」
(湛)
「そこで、石田三成殿は一気に勝敗を決めるべく、松尾山の小早川軍1万5千・南宮山の毛利・長宗我部軍2万5千に対して合図の狼煙(のろし)を上げて戦闘参加を要請したわけですね?」
(隆)
「その段階で、西軍は三万ほどの兵力で七万近い東軍全体を相手にしていたのですから、新たな西軍部隊が戦闘に参加すれば、西軍勝利は間違いなしかと思われました。ところが・・・・。」
(室)
「松尾山の小早川も、南宮山の毛利も反応がなかった?」
(隆)
「その通りです。石田三成は家来を小早川の陣地に何度も送って催促しましたが、それでも秀秋は動きませんでした。」
(湛)
「あれ?小早川秀秋殿は東軍にも味方をする約束をしていたんじゃ?」
(隆)
「そうです。三成が小早川の陣中に催促の使いを送っていたまさに同じ頃、東軍総大将の徳川家康公も本陣でやきもきしていました。西軍を裏切る約束をしているはずの秀秋がなかなか動く気配を見せないからでした。老練な家康公は、秀秋が東軍と西軍の双方を天秤にかけていると考え、こちらも秀秋に催促をかけました。但し、使いを送るといった尋常な手段ではなく、百戦錬磨の大将らしい奇抜な方法で・・・・。」
(室)
「それは?」
(隆)
「なんと、小早川勢が陣取る松尾山に向けて鉄砲を一斉に撃ちかけさせたのです。」
(湛)
「『ええ加減に白黒ハッキリせい!』と?」
(室)
「これには小早川秀秋殿も驚いたでしょう。」
(隆)
「ええ。心理的に追い詰められた秀秋はあわてて西軍への攻撃を命じました。小早川軍中には『武士が戦場で友軍を裏切る等言語道断!』と裏切りを拒否する者もおり、混乱を生じましたが、大部分は秀秋の命令に従って出撃し、少ない軍勢で善戦していた大谷吉継隊の側面に殺到しました。更に、大谷隊と小早川隊の間に布陣していた脇坂安治ら4隊も西軍を裏切って大谷隊を攻撃し、さすがの名将・大谷吉継も支えきれず、自ら命を絶ちました。」
(湛)
「これが戦場のターニングポイントになったわけですね。」
(室)
「大谷隊が壊滅した後、東軍の矛先は西軍最大最強の宇喜多秀家隊に集中したそうで?」
(隆)
「そうです。最期を悟った宇喜多秀家は秀秋の裏切りに激怒し、『小早川と刺し違えん!』と自ら敵に切り込もうとしましたが、部下に説得されて戦場を脱出しました。」
(室)
「残る石田隊と小西行長隊は?」
(隆)
「秀秋の裏切りによって西軍は全体の統制を失い、宇喜多隊に続いて小西隊も四散・敗走しました。石田隊も最前線で指揮をとっていた島勝猛や蒲生郷舎らの主要幹部が戦死し、三成は伊吹山方面へ逃れました。」
(湛)
「戦闘に参加しなかった毛利・長宗我部隊もそのまま関ヶ原から退却したそうですね。」
(室)
「結局、関ヶ原の戦いは東軍大勝利に終わった訳ですが、用心深い家康公は秀秋殿らを完全には信用せず、続いて三成の居城・近江国(滋賀県)佐和山城攻略に向かわせたそうで。」
(隆)
「その後、西日本を中心に散在していた西軍の残党部隊が武装解除し、佐和山城陥落、毛利輝元の大坂城退去によって戦いは終局を迎えました。以前もお話しましたように、毛利家・上杉家は領地の75%を没収されました。また、西軍の首謀者として石田三成・小西行長は捕らえられて処刑され、宇喜多秀家は八丈島に流されました。」
(湛)
「小早川秀秋殿は?」
(隆)
「戦いの土壇場での秀秋の裏切り行為に対して東軍内部からも批判が集中しましたが、最終的に家康公は秀秋の行動を評価し、従来の領地である筑後国(福岡県)に替えて備前国・美作国(いずれも岡山県)と岡山城主の地位を与えました。」
(湛)
「それは良かった!両川体制(吉川家と小早川家が毛利本家を支える体制)万々歳じゃないですか!」
(室)
「宗湛よ、それは違うぞ。」
(湛)
「へ?」
(隆)
「そうなんです。自分で自分の養子のことを悪く言うのも変な話ですが、やはり、戦闘中の土壇場での裏切りは人間として最低の行為であったと思います。戦後、小早川の兵卒は周囲から『性根の腐った奴等』という意味で鼻をつまむような素振りをされたと聞きます。特に中盤まで善戦していながら秀秋の裏切りに敗れた宇喜多秀家や大谷吉継の秀秋への憎悪は凄まじかったそうです。そして、人間としての最低限の節操を護れなかった秀秋にはやがて天罰が落ちました。」
(室)
「岡山転封からわずか2年後、20歳の若さで小早川秀秋殿が急死したのですな?」
(湛)
「ええっ?そうなんですか?」
(隆)
「ええ。関ヶ原戦後の秀秋は深酒がますます酷くなり、体を病んでいましたが、世上の噂では落命した西軍武将の祟りとも、秀秋を警戒した徳川家や豊臣家の暗殺とも言われました。また、秀秋には跡継ぎがいなかった為、小早川家は領地没収の上、取り潰しとなりました。」
(湛)
「なるほど~。両川体制の一角である小早川家はこうして消えたわけですね?」
(室)
「こ、こら!」
(湛)
「す、すみません。言葉が過ぎました。」
(隆)
「グスン。・・・・まあ、気に病んでもしょうがないですよね。もともと我が父、毛利元就が強引に小早川家を乗っ取り、今度は太閤様に乗っ取られた後、取り潰しになった訳ですから、因果応報ということでしょう。」
(湛)
「しかし、毛利家を乗っ取ろうとして代わりに小早川家を乗っ取るとは太閤様も随分腹黒いことをお考えになりますよね~?」
(室)
「全くだ。」
(隆)
「でも、後から人づてに聞いたのですが・・・・。考え出したのは黒田官兵衛殿らしいんですよね・・・・。」
(??)
「隆景殿、何かワシに言いたいことがあるなら直接言わんかい!」
(??)
「父上、そんなことよりも大名たるものが人の話を立ち聞きしていた方がみっともないですよ!」
(隆)
「官兵衛殿!」
(室・湛)
「それに長政様も!」
(父)
「ワシが天下泰平のために思いついた養子縁組について皆で陰口を叩くとは!」
(隆・室・湛)
「決してそんな・・・・。」
(父)
「よいか、各々方!そもそも天下泰平に為には・・・・豊臣と徳川と毛利が!ゴッホゴッホ・・・・。」
(子)
「さ、さ、父上。お体に障りますよ。」
(室)
「宗湛があちらの茶室で一服建てさせて頂きますゆえ。」
(湛)
「黒田様、どうぞこちらへ。」
(子)
「次回から我等も一緒に同席させて頂けばよいではありませんか?あ、そうだ!次回は関ヶ原の戦いで全く動かなかった南宮山の西軍動向について私の方からお話をしましょう。」
(隆)
「それは良いですな。」
(湛)
「賛成!」
(父)
「むむっ、分かった。じゃが長政よ、ワシよりも目立とうとするでないぞ!」
(子)
「・・・・。」
[続く]
(室)
「今日は天下三陪臣の4回目。」
(湛)
「関ヶ原の戦い以降の直江兼続については以前の黒田長政様と小早川様の対談でお話しされましたので、ここではその後の小早川家の動向について小早川様に伺うことから始めましょうよ、叔父さん。」
(隆)
「そうですね。まず、我が小早川についてお話しすることにしますが、その前に皆様に私の『死』と毛利家を支えた「両川体制」についてお話せねばなりませんね。」
(湛)
「えっ!小早川様が死んじゃうことがあるんですか!?」
(隆)
「当たり前です(笑)!ともかく、私には10人以上の兄弟姉妹がいますが、長兄・毛利隆元は父の跡を継いで毛利家当主となり、次兄の元春は父が吉川家を乗っ取った際に『吉川元春』と名乗りました。私も同様に父が小早川家を乗っ取った際に『小早川隆景』名乗ることになりました。以降は、父が存命であっても形式上は『次男・吉川元春と三男・小早川隆景が長男・毛利隆元を支える』体制が成立しました。」
(室)
「なるほど。『吉川』の『川』と『小早川』の『川』をとって『両川体制』というわけですな。」
(湛)
「叔父さんのウンチク説明がなくても、賢い読者の皆さんはとっくにご存知ですよ~。」
(室)
「うるさい!」
(隆)
「まあまあ。ところで、一応?我々は仲の良い兄弟だったのですが、本家を継いだ長兄・毛利隆元殿が40歳で急死し、父も8年後の1571年に亡くなりました。」
(湛)
「間もなく信長公が、本能寺の変後は太閤様が中国地方攻略を開始しますね?」
(隆)
「そうです。様々な虚虚実実の駆け引きの末、以前お話したように我が毛利家は太閤様の天下統一に協力する形で豊臣軍の一員となりました。」
(室)
「しかし、間もなく次兄の吉川元春殿も亡くなり、小早川様は毛利家の重責を一身に担う形で九州平定戦や朝鮮半島での戦いに従事された・・・・。」
(湛)
「そして、何か事件が起こったのですね?」
(隆)
「ええ。その頃、毛利本家を相続した毛利輝元にはまだ跡継ぎが生まれていませんでした。太閤様は一計を案じ、自らの甥・秀秋を毛利家に養子として入らせることを提案してきました。」
(室)
「なるほど。西国の大大名・毛利家当主に自分の甥を据えて、より強固に支配しようと・・・・。事実上の乗っ取り工作ですな。」
(隆)
「わが父、毛利元就も得意な手法でしたが(笑)。一応、太閤様は『毛利家の為に・・・・』とおっしゃいましたが、魂胆はミエミエでした。しかも、太閤様の甥を跡継ぎに迎えれば、後に毛利輝元に実子が生まれても(実際生まれた)、そう簡単に約束を取り消すことはできなくなります。」
(湛)
「毛利家内部にも反対は多かったでしょうが、表立って『毛利家に豊臣の血を入れられるか!』なんて誰も言えなかったでしょうね。」
(隆)
「そりゃそうですよ!」
(室)
「しかし、結果的に小早川様の機転で毛利本家は救われた・・・・。」
(湛)
「どういうことです?」
(室)
「同じく子供がいなかった小早川様は、『秀秋を私の養子に・・・・』と熱っぽく太閤様に頼み込んだんじゃよ。」
(隆)
「そうなんです。その間に毛利一族から秀元を毛利本家に養子入りさせ、太閤様の思惑を封じ込めました。その上で、私は太閤様の甥・秀秋を養子として筑前国(福岡県西部)・名島城に迎えました。」
(湛)
「さすがは知恵者・小早川様ですねえ!太閤様の策謀を逆手に取るとは!」
(隆)
「そうでもないんです。太閤様は私の真意に気付いていたようです。」
(室)
「ええっ?」
(隆)
「しかし、太閤様は喜んで秀秋を我が小早川家に送り出してくれましたよ。毛利家の一員としての私の苦しい立場に気付いて反省されたのでしょう。太閤様は一筋縄ではいかない相手でしたが、そういう男気がある素晴らしい人物でした。きっと、『毛利家乗っ取りには失敗したが、隆景に一つ貸が出来たワイ』みたいな感じだったのでは?」
(湛)
「へえ~。『英雄は英雄を知る』ということですか?」
(隆)
「そこまでは・・・・(笑)。1595年、私は秀秋に小早川家当主の座を譲り、広島の三原城に移りました。更に2年後、私は生涯を終えました。秀秋はまだ18歳でしたが、豊臣家から付衆として秀秋直属の家臣団がやってきたこともあり、何とか筑前国をまとめ、『筑前中納言』と呼ばれました。」
(湛)
「えーん!小早川様が死んじゃった~!」
(室)
「お前とて一度は死んだ身であろう!黙っておれ!」
(隆)
「・・・・いいですか?」
(室)
「お気遣いなく。後で叱っておきますゆえ。」
(隆)
「間もなく、太閤様も亡くなり、徳川家康公と石田三成らが対立する時代を迎えました。本来は豊臣家の親族筆頭格である秀秋でしたが、太閤様の生前に三成の謀略で領地を没収されそうになったことから三成を恨み、家康公寄りの姿勢を取り始めました。」
(湛)
「石田三成殿からすれば、関ヶ原の戦いを豊臣家VS徳川家の戦いとして演出して味方を集めるには豊臣家の親族となった小早川家が味方してくれなければ、格好がつきませんからね。」
(隆)
「その通り。そこで三成は『秀秋を関白(かつて豊臣秀吉が就任した公家の最高職)に就任させる』ことを条件にして秀秋を味方に引入れ、秀秋率いる小早川軍1万5千は西軍として関ヶ原の松尾山に出陣しました。」
(室)
「しかし、同時に黒田長政様を通じて徳川家(東軍)からも誘いの手が伸びていたのでは?」
(隆)
「はい。但し、条件面では三成の出した条件の方が魅力的だったようですね。一方で、勝率としては東軍優位と考えていたのではないでしょうか?秀秋も決して馬鹿な人物ではありませんでしたから、ギャンブルと一緒で『勝ち目が少ない方が好条件的である』という現実的な認識はあったと思いますよ。」
(湛)
「そして、いよいよ関ヶ原の戦いが始まりますね。」
[続く]
(室・湛)
「後藤様、おはようございます。」
(又)
「宗室殿、宗湛殿。本日は『敵は本能寺にあり~!』の明智光秀タイプについてのお話ですな。」
(湛)
「叔父さんが前回言っていたように、明智殿は日本人がロマンスを抱き易い戦国のカリスマ・織田信長公その人の重臣でありながら、『謀反』という形で暗殺し、更には織田家の勢力を事実上解体に追い込んだ凄い経歴の人です。学校の社会科の教科書だけ読むと、戦国時代のロマンスをぶち壊しにしたとんでもないヒンシュク者のようにも思えますが、本当はどうだったのでしょうか・・・・?『タブーを恐れない!』というのが今回のテーマです。ゼェゼェ・・・・。」
(室)
「今日は随分テンションが高いのう。大丈夫か?」
(湛)
「だ、大丈夫です・・・・。因みに同じカテゴリにランクインするのは飛鳥時代の蘇我入鹿や、幕末(江戸時代末期)徳川幕府大老・井伊直弼でしょう。」
(又)
「前回とは違う意味で強烈な個性を放つ人物が多いですね。今回もプロフィール案内と『宗湛評価』をお願いしたいですな。」
(PROFIL)
明智光秀
生年不祥~1582年。美濃国(岐阜県)出身といわれるが定かではない。伝承では美濃国の守護大名・土岐氏の一族で明智城主とも。前半生は事実上不明である。越前国(福井県)の戦国大名・朝倉義景に仕えた頃から歴史の表舞台に登場し、同じく朝倉氏に身を寄せていた足利義昭(後の足利幕府十五代将軍)と織田信長の間を取り持つ。やがて、織田家と天皇家・足利幕府との窓口として京都周辺の治安と行政を担う重鎮となるが、鉄砲や茶道・和歌に優れ、異色の多い織田家の武将の中でも際立った存在だった。信長の命令を忠実に実行し、比叡山焼き討ちや北陸一向一揆(浄土真宗の信者による自治勢力)討伐、石山本願寺(当時の浄土真宗の総本山)攻撃に参加して業績を高く評価された。しかし、1582年に日本史上最大の事件「本能寺の変」を起こす。事前のほぼ完璧な情報封鎖により、光秀はそれまで誰にも為し得なかった「織田信長殺害(実際にそれ以前に重臣の松永久秀・荒木村重が反乱を起こすが全て失敗した)」を成し遂げたが、逆に情報封鎖が仇となって事前に有力な協力者を得られず孤立した。やがて、中国地方から三陪近い兵力を率いて戻った羽柴秀吉(豊臣秀吉)との「山崎の戦い」で敗れ、退却中に命を落としたとされる。
宗湛評価[長期ビジョン:2 困難克服度:5 パートナーシップ:4 部下からの信頼:5 最期・子孫幸福度:1 一般ウケ:3]
蘇我入鹿
610~645年。飛鳥時代の大豪族・蘇我氏の出身。蘇我馬子の孫で、蘇我蝦夷の子。蘇我氏は代々財務・外交を担当する大臣(おおおみ)に家柄であり、仏教が伝来するとその強力な庇護者となった。祖父・馬子はその財力や渡来人との友好関係を背景に勢力を拡張し、聖徳太子と組んで、ライバルの大連(おおむらじ)・物部守屋を滅ぼした。崇峻天皇を暗殺したといわれる程の祖父・馬子の強大な権力は父・蝦夷と入鹿に引継がれ、入鹿は皇極天皇(天智天皇の母)の後継を巡って山背大兄王(聖徳太子の子)の一族を滅ぼす。その上で入鹿と親しい古人大兄皇子を天皇に立てようと企てたとされるが、同じく次期天皇の有力候補であった天智天皇(当時は中大兄皇子)らによって入鹿は宮中で暗殺されてしまう。入鹿を喪った父・蝦夷もやがて自殺し、蘇我氏の本家は滅亡した。
宗湛評価[長期ビジョン:3 困難克服度:3 パートナーシップ:3 部下からの信頼:3 最期・子孫幸福度:1 一般ウケ:1]
井伊直弼
1815~1860年。戦国時代の徳川四天王の一人、井伊直政の子孫である彦根藩主・井伊家に生まれたが、14男であった為、30代まで茶道・書画・和歌などの文芸や、居合(剣術の一種)・鉄砲等の武芸に専念する。茶道・居合・鉄砲については自ら流派を開くほどのレベルであった。やがて、兄等の死によって彦根藩主となり、地元では名君として親しまれる。その後、徳川幕府内での将軍跡継ぎ問題と開国問題を巡る政争では「大老(閣僚級の「老中」の上に置かれた非常時の最高職)」に就任する。反対派を抑えて日米就航通商条約に調印し、自ら推薦した徳川家茂が十四代将軍に就任すると、将軍候補を争った徳川慶喜らの一派を「安政の大獄」で大弾圧する。しかし、これらは水戸藩等の激しい反感を買い、逆に江戸城桜田門で暗殺されてしまった(桜田門外の変)。「安政の大獄」では大名・武士以外にも貴族や学者も数多く処罰し、幕末長州藩のヒーローである木戸孝允・高杉晋作の師匠である吉田松陰を処刑したことから、倒幕派に対する悪役のように描かれる一方、英明だった(とされる)徳川慶喜の将軍就任を妨げたことから徳川幕府の寿命を縮めた無能な人物のようにも誤解されてしまっている。
宗湛評価[長期ビジョン:3 困難克服度:5 パートナーシップ:3 部下からの信頼:4 最期・子孫幸福度:2 一般ウケ:1]
(室)
「『最期・子孫幸福度』や『一般ウケ』がおしなべて低いようじゃな。」
(湛)
「皆さん、基本的に時代劇ではほぼ悪役に回りますからねえ・・・・。それと、蘇我入鹿については彼に批判的な内容の歴史書『日本書紀』以外に記述が少なく、『困難克服度』や『パートナーシップ』『部下からの信頼』については判断できかねたので、『人並みの苦労や信頼はあっただろう・・・・』という評点になっています。」
(又)
「なるほど。ところで宗湛殿、このお三方に共通するのはやはり・・・・。」
(湛)
「ズバリ、『○○を殺したヤツ』という評価でしょうね。正直、明智殿は信長公を死に追いやった人物として余りにも有名な反面、他の功績や活躍は一般に殆ど知られていません。例えば、織田軍団随一の高い教養を誇り、天皇家や足利幕府、徳川家、長宗我部家との外交官として活躍したことや、山がちで攻め難い丹波国(京都府の一部)を独力で攻略した程の戦上手であったこと等は『本能寺の変』のインパクトの影に隠れてしまっているのです。」
(室)
「織田家の中で短期間に破格の出世を遂げたのは、当然優れた実力があったからに他ならぬのだからな。実際、『光秀のこの度の活躍は天下に面目を施したものである』という信長公の有名な言葉も残っておる。明智殿の人生の事跡において、『本能寺の変』はほんの一部に過ぎないと言っても過言ではない。それほど優秀な武将だったのだ。」
(又)
「幕末の井伊直弼にしても、『安政の大獄』の反動で暗殺されてしまったことから、『名門大名家に生まれて温々と育ち、明治維新の指導者を数多く育てた吉田松陰を処刑し、結局自分も襲われて籠から逃げ出すこともできずにあっさり殺された、情けない頭の悪い殿様』だと思い込んでいる人もいます。」
(湛)
「井伊直弼は剣の居合抜きの達人なんですからね。襲撃犯である水戸浪士が直弼の剣技を警戒して直弼の籠を真っ先に銃で狙撃した為、落命時の直弼は腰に重傷を負っていて既に動けなかったとされています。」
(又)
「腰を撃ち抜かれては、この後藤又兵衛であってもどうしようもなかったでしょうからな。」
(室)
「井伊直弼の生きた幕末、徐々に経済力・軍事力を蓄えてきた薩摩藩や長州藩、水戸藩などは、それまでのしきたりを破って幕府政治に口を出すようになってきた。彼らは水戸藩出身の徳川慶喜を14代将軍候補に推して『一橋派』を形成し、政治介入のきっかけとした。」
(湛)
「これに対し、直弼は13代将軍徳川家定の従弟で、紀州和歌山藩主・徳川家茂こそ将軍に相応しいと考え、『南紀派』と呼ばれました。家茂が現将軍の従弟であるのに対し、徳川慶喜は血縁を家康公まで遡ることになり、血縁は希薄といえました。しかも、当時徳川御三家と呼ばれた『紀州藩』『尾張藩』『水戸藩』の中で徳川慶喜の水戸藩の官位・格式は一格下とされており、一方で徳川家茂の紀州藩はかつて8代将軍・徳川吉宗を輩出した前例もありました。」
(又)
「なるほど。『近親者を差し置いて血縁の遠い者を跡継ぎにするのはお家騒動の元』というのが当時の武家社会の鉄則ですからな。」
(室)
「それに、『英明過ぎる』徳川慶喜は後に15代将軍に就任したものの、自らの才能に溺れるところがあり、周囲の者への思い遣りに欠けるなど、トップとして大切な人望に薄い面もあった。これに対し、直弼が推した14代将軍・徳川家茂は僅か13歳で将軍に就任し、惜しくも20歳で亡くなったものの、孝明天皇からの厚い信頼を受け、小栗忠順や勝海舟らを有能な幕臣として取り立てた。血縁・家柄だけでなく実績から見ても直弼が徳川家茂を将軍に推薦したのは正しかったと言えるな。」
(又)
「井伊直弼の先祖である井伊直政殿は、関ヶ原の戦いで島津義弘軍を破ったものの、自身も重傷を負いました。その後、島津義弘から家康公への取成し(謝罪して許してもらう)を頼まれた井伊殿は快く応じ、そのお蔭で島津家は取り潰しにならずに済みました。一方、島津義弘の武将としての強さと人間味を評価して協力した井伊殿はその傷がもとで間もなく亡くなりました。」
(湛)
「それから約260年後、直弼の先祖が命と引き換えに助けてやった者の子孫が、厚かましくも井伊家が代々大切に護ってきた徳川幕府に逆らい、恩を仇で返すような行為に出たとしたら・・・・。」
(又)
「井伊直弼が形振り構わぬ強引な手腕で幕府の権威を回復しようとしたのは立場上、当然と言えるかもしれませんな。」
(室)
「『次世代のホープ・吉田松陰を処刑した人物』という後世のタブーに囚われず、彼が徳川家の重臣として真っ直ぐに生きたことを積極的に評価すべきなのかも知れぬ。」
(湛)
「そういえば、蘇我入鹿についても『優秀すぎる聖徳太子の息子、山背大兄王を警戒して殺害し、血縁が近い古人大兄皇子を次期天皇に推した』と一般には信じられていますが、もともと山背大兄王の父である聖徳太子と蘇我氏は更に濃い血縁関係にありました。この為、最近では『蘇我氏の血縁に近過ぎる山背大兄王が天皇になると、他の豪族の反発が予想される為、入鹿は山背大兄王に辞退するように説得した。しかし、山背大兄王が天皇の地位を固執した為に説得は決裂し、戦となった』という説もあるようです。」
(又)
「この頃の我国には日記という習慣がなく、後世の歴史書を改ざんし、歴史の勝者が敗者である蘇我入鹿に全ての罪を着せることは簡単だったはずですからな・・・・。」
(室)
「この頃の飛鳥政権は複数の皇族と豪族の連立政権。蘇我入鹿が自身の権力強化よりも、各派閥のバランス取りに苦慮していたとしても不思議はない。」
(湛)
「むしろ、政局を不安定にする要素として山背大兄王を攻め滅ぼした。」
(又)
「そして、蘇我入鹿を暗殺した者たちが、山背大兄王を悲劇的な最期を遂げた次代のホープとして祭り上げ、入鹿の名声を決定的に貶めた・・・・。聖徳太子の跡を継いで、天皇中心の国作りをするはずだった英才を殺すというタブーを犯した稀代の悪人として。」
(室)
「蘇我入鹿も井伊直弼同様に、『タブーを犯した極悪人』として後世で勝手にでっちあげられて評価されてしまった訳だ。」
(又)
「そして明智殿も。」
(湛)
「でも、ボクは3人とも後悔はしていないと思いますよ。確かに明智殿は信長公を、蘇我入鹿は山背大兄王を、井伊直弼は吉田松陰をそれぞれ殺め、新しい時代の扉を閉ざそうとした印象があります。信長公が生きていれば、天下統一を成し遂げて幕府を開いていたかもしれません。山背大兄王が生きていれば、大化の改新は彼の手で成し遂げられたかもしれません。吉田松陰が生きていれば、もっと早く我国の近代化が進んだかもしれません。」
(室)
「ふむ。」
(湛)
「しかし、タブーを犯したとされる3人にもきっと大きな理想があったと思うんです。明智殿の場合は、信長公が戦時に好んで用いた『根切り(皆殺し)』を止め、仏教勢力との和解に努めて人心の安寧に努め、出来る限り血を流さずに天下統一を目指すことを・・・・。蘇我入鹿の場合は、蘇我氏が天皇家との血縁で勢力を拡張する時代ではなく、蘇我氏の政策そのものが評価される時代の到来を・・・・。井伊直弼の場合は、徳川幕府がかつてのような安定した指導力を回復し、卓越した政策の下に諸外国と外交で渡り合っていくことを・・・・。」
(又)
「そうかも知れませんな。」
(室)
「確かに、彼らにも彼らなりの理想が当然あったはずだ。」
(湛)
「ボク達博多商人も、一世一代の大勝負に出たことはあります。勝っても負けても文句を言わない男の大勝負。彼らは皆、古い時代と新しい時代の端境期に活躍し、第3の道筋を切拓くリーダーとして命を懸けた大勝負に敗れ、歴史に仇華を残したのです。そして、タブーを恐れず勇気を振るい、数百年もの間一方的な歴史観に曝され続けることを恐れなかった。」
(又)
「なるほど、今回の教訓が分かりましたぞ!人物を評価する場合には世俗の評価に惑わされず、自分自身の目と耳で見聞きしたことを信じよ、ということですな。」
(湛)
「この神屋宗湛、長政様にも是非気高い理想を持って頂きたいものですな。エッヘン!」
(室)
「深イ~イ話だったと思うが、上から目線の宗湛が妙にムカツク・・・・。」
(湛)
「えっ!?」
(又)
「まあまあ。」
[続く]