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天下三陪臣(1)・・・・名将・小早川隆景の決断

2011 年 4 月 5 日

(子)

「おはようございます、小早川殿!」

(隆)

「先日の件で官兵衛殿からのお叱りは・・・・?」

(子)

「こっぴどく延々と・・・・。親友であるはず(!)の小早川殿から『筑紫大名が休息地を求めても貸すな!』と言われたこともショックだったようで・・・・。」

(隆)

「うむむ・・・・。今度『梅が枝もち』を下げてお詫びに伺いましょう・・・・(汗)。ときに長政殿は『天下三陪臣』というのをご存知ですかな・・・・?」

(子)

「てんかさんばいしん・・・・?えーと、うーんと、小早川殿と・・・・、小早川殿と・・・・。」

(隆)

「分からないなら、そう言って下さいよ!」

(子)

「申し訳ございません。」

(隆)

「別に謝られるほどのことでは・・・・。陪臣の『陪』には又者という意味がございましてな、『陪臣』というと、『家来のまた(又)家来である者』という意味になります。」

(子)

「なーるほど。」

(隆)

「つまり、『天下三陪臣』というのは、天下人である太閤様(豊臣秀吉)から見て、豊臣家の家臣である毛利家のそのまた家臣である、この小早川隆景、同じく上杉家の家臣である『愛』の兜を被った小生意気な青二才、つまりは直江兼続、そして同じく龍造寺家の家臣である鍋島直茂、の以上三人を指します。」

(子)

「いずれも我が父・官兵衛が嫉妬するような有名人ばかりですね。」

(隆)

「確かに・・・・(笑)。」

(子)

「では、そもそも天下三陪臣の由来は何なのでしょう?」

(隆)

「太閤様が『この世で天下を取ることが出来る程の才覚を持つのは、上杉家臣の直江兼続・毛利家臣の小早川隆景・龍造寺家臣の鍋島直茂の3人である』と仰ったのが由来です。」

(子)

「つまりは、『(秀吉から見ると)家来の家来に過ぎないが、我国の舵取りを任せられる程の逸材』という意味ですね?」

(隆)

「形式的な由来はそうですね。我々三名に共通するのは、いずれも毛利・上杉・龍造寺といった大大名の家中で、他家との外交を任された親族衆や家老クラスだということです。」

(子)

「なるほど・・・・。」

(隆)

「しかも、それぞれの家中では親・豊臣路線を主張し、太閤様から直接領地を授けられる程親しい間柄を築いています。」

(子)

「そういえば、直江兼続の領地・米沢30万石も、鍋島殿の諫早(豊臣秀吉の九州平定直後。後に鍋島氏は佐賀県全土と諫早を支配することとなった。)も全て上杉家や龍造寺家に与えられたのではなく、それぞれ個人的に与えられたものですね。そして、小早川殿の領地・筑前国(福岡県西部)も・・・・。」

(隆)

「そのとおり!ですから、建前上は太閤様から主君とは別枠で領地を頂いて『良かった良かった』なのですが、実際はそう良いことばかりでもないのです。何故なら、太閤様の立場を考えると、毛利家や上杉家・龍造寺家が敵対しないように、それぞれの家中の№2に恩を売って取り込んでしまおうという考えがミエミエなのです・・・・。」

(子)

「そういえば、島津氏の家老で豊臣家との交渉役だった伊集院忠棟も日向国(宮崎県)都城8万石を太閤様から与えられましたが、結局は主君である島津氏との間に溝が出来てしまい、伊集院忠棟は後に島津側の手で暗殺されていますね・・・・。おお、恐い!」

(隆)

「つまり、実際には先程の島津家中の伊集院忠棟のケースのように、太閤様が各大名家の№2を手なずけて、それぞれの大名家を内部から統制してしまおうという内政干渉を巧みに美化したのが『天下三陪臣』という言葉なのです。」

(子)

「そう聞くと、太閤様から高い評価を受けたからといって喜んでばかりもいられないようですね。」

(隆)

「そういうことになりますな。悪い意味で『手なずける価値がある』人物とでも言いましょうか。」

(子)

「しかし、直江兼続はともかく、小早川殿をも簡単に『手なずけられる』人物と思っておられたとしたら、太閤様も思慮不足では?」

(隆)

「いやいや、太閤様に比べれば所詮私の力量などはそんなものでしょう・・・・。先程の天下三陪臣の話には続きがありまして、『この世で天下を取ることが出来る程の才覚を持つのは、上杉家臣の直江兼続・毛利家臣の小早川隆景・龍造寺家臣の鍋島直茂の3人である。しかし、それぞれに足りないものが1つずつある。』」

(子)

「何と?」

(隆)

「『直江は知恵が足りない。小早川は勇気が足りない。鍋島は大気が足りない』のだそうです。」

(子)

「前回の話を聞けば直江兼続の評価は的中ですが、小早川殿に勇気が足りないとは太閤様も人を見る目がないですな!」

(隆)

「恐らく、『本能寺の変』の後、私の実兄・吉川元春や甥・吉川元長が太閤様との決戦を主張したにもかかわらず、私だけが和平を主張しました。結果として、我が毛利家との戦を避けた太閤様は敵を明智光秀だけに絞ることができ、豊臣政権への道が開けました。私の決断について『あの時、明智軍と羽柴(豊臣)軍を挟撃していたら・・・・』『挟み撃ちにする度胸がなかった』等と申す者がおります。」

(子)

「しかしそれは・・・・。」

(隆)

「左様。太閤様をあの時討つことは出来たかもしれません。しかし、我が毛利家が太閤様に代わって戦のない平和な世の中を築くことは難しかったでしょう。」

(子)

「確かに、太閤様は毛利家との和平からたった8年で天下統一を成し遂げられていますね。」

(隆)

「ここだけの話、決して官兵衛殿の力だけで太閤様の天下統一が出来たわけではないと私は思いますぞ。」

(子)

「またまた爆弾発言ですね!」

(隆)

「天下を治めるには、戦争や計略に強いこと以外にも重要なファクターが幾つもあるはず。私は太閤様以外の人物ではあれほど迅速な天下統一は不可能だったと思います。ですから、私はあのときの決断を悔やんだことは一度もありません。」

(子)

「なるほど・・・・。」

(隆)

「それに、太閤様は毛利本家に安芸国(広島県西部)・備後国(広島県東部)・周防国(山口県東部)・長門国(山口県西部)の合計121万石を安堵頂き、私にもこの筑前国50万石と名島城を与えて頂きました。天下統一へご協力申し上げたことに対し、充分報いて頂いたと思っております。」

(子)

「当時の我が黒田家の石高は豊後国(大分県)中津12万石・・・・。父・官兵衛は『有能過ぎるワシを太閤様が警戒して領地を増やしてくれんのじゃ』と言っておりましたが、小早川殿の様に優秀な方がきちんと評価されていることを考えると、父の発言は何だか言い訳がましく聞こえちゃいますね・・・・。」

(隆)

「有能過ぎて~は全く関係なくて、単純に太閤様と仲が悪かっただけかもしれませんぞ・・・・。」

(子)

「な~るほど。プライドの高い我が父はそれが言えなくて、自分で『有能過ぎて・・・・』と。くくくっ。」

(隆)

「官兵衛殿らしいといえば、らしいですな。」

(??)

「こら!長政!お前はワシのことをそう思っておったのか!」

(子)

「ち、父上!」

(隆)

「官兵衛殿!」

(父)

「だいたい隆景殿も隆景殿じゃ!ワシの性格が悪くて出世が遅れたような言い方をしおって!おヌシなぞはこんなに立派な名島城を頂戴しながら、ホームシックになって広島の三原城へ帰りおったくせに!」

(隆)

「あ、言ったな!官兵衛。人が気にしていることを!」

(父)

「60過ぎのオヤジがホームシックとは気持ちが悪いだけだわい!」

(子)

「み、皆様!じ、次回は雄藩・佐賀藩を興したあの名将のお話です!父上、小早川殿、おやめ下され!」

(父)

「うるさい!だいたいお前がワシのことを『言い訳がましく聞こえちゃいますね』などと言うからこんなことになったのじゃ!」

(隆)

「そうだ、そうだ!」

(子)

「痛い、痛い!やめて~!何でこうなるの?」

[続く]

直江兼続②・・・・戦下手の上に外交も・・・・?

2011 年 3 月 4 日

(子)

「小早川殿、今回も宜しくお願い致します。」

(隆)

「本日も『愛』の兜を被った小生意気な青二才、つまり上杉景勝の家老・直江兼続の続きでしたな・・・・。」

(子)

「そうですね・・・・。」

(隆)

「太閤様が1598年に亡くなり、太閤様の盟友で五大老(豊臣政権での閣僚級の役職)の一人、前田利家殿も翌年に亡くなると、豊臣家五奉行(豊臣政権での省庁の長官級の役職)の一人、石田三成は兼続を呼んでこう焚き付けました。」

(子)

「『太閤様も前田利家殿も亡くなり、このままでは豊臣政権は徳川家康に乗っ取られてしまう。今こそ上杉が豊臣家に恩返しすべき時だ!』と?」

(隆)

「恐らくは。そして、1600年。本国・会津国(福島県)に戻った景勝と兼続は戦の準備を進める一方、徳川家に対して有名な『直江状』を送りつけます。」

(子)

「確か、城や砦を整備して武具を集めている理由を尋ねる家康公からの質問に対し、『我が上杉は田舎大名なので、茶器を買ったり遊んだりすることに金を使う道を知らない。そのかわり、城の整備や武具の収集に金を使って何が悪い!』というでたらめな言い訳や、『兵を率いて国境で家康公を待っている』つまり戦おうという挑発が書かれた挑戦状ですね?」

(隆)

「当時、家康公も上杉景勝も共に五大老に名を連ねる有力大名で、その実力は国連安保理の常任理事国のようなもの・・・・。家康公は先手を打って現在の安保理決議よろしく、『五大老の上杉家は豊臣家への戦の準備をしている。天下泰平の為にこれを討伐しよう!』と、黒田殿はじめ諸大名を集めて会津遠征軍を編成しました。三成や兼続のシナリオでは、家康公が会津へ向かった隙に、大阪城の豊臣秀頼君と五大老の一人、毛利輝元を抱きこんで『徳川を討て!』と命令を出させて一挙に勝敗を決するつもりだったようですね・・・・。」

(子)

「私もこの時家康公と同行していたのですが、外交面でも腹芸でも一枚も二枚も上手の家康公はこのシナリオを見抜いておられたようで、石田三成らの西軍が近畿方面で反徳川の戦いを仕掛けてくるのを待つかのようにゆっくりと進軍しました。」

(隆)

「そして、家康公は油断なく密かに西軍との戦の準備を進め、西軍の武将達を裏切らせるように長政殿に命じられる一方、上杉家と正面から戦うことになる陸奥国(宮城県他)の伊達政宗や、出羽国(山形県他)の最上義光にも戦の準備を命じました。」

(子)

「そうですね。この時、石田三成が挙兵した知らせを受け、私も含めた会津遠征軍の大部分が、そのまま家康様に味方する東軍として反転することになったのを覚えておりますぞ。」

(隆)

「東軍主力が去ったことを確認すると、兼続は軍神『愛染明王』をモチーフにした『愛』の兜を身に付け、上杉軍3万名余りを率いて意気揚々と東軍側の最上義光攻撃の為に出陣しました。」

(子)

「戦いの焦点は、最上家の本城・山形城のアキレス腱に当たる長谷堂城ですな?」

(隆)

「そうです。長谷堂城を攻略すれば、上杉軍は最上氏の本拠・山形城を直接攻撃できることになります。兼続は軍を二手に分け、約1万8千名の兵を直卒して長谷堂城へ殺到し、残りを別動隊として他の地域への攻撃にあてることにしました。」

(子)

「兵力を分けたのは、この段階で正解だったようですね。」

(隆)

「はい。最上軍の大部分は本拠・山形防衛の為に温存され、上杉軍別動隊に備える為に別の地域にも兵力を分散したことから、最重要拠点であるはずの長谷堂城の最上軍は1000名程だったといいます。おまけに援軍に来るはずの伊達政宗軍の動きは低調で殆どあてに出来ない状態でした。」

(子)

「最上義光にとっては八方ふさがりですね・・・・。」

(隆)

「しかし、長谷堂城を護る最上軍の武将・志村光安は18倍もの敵を相手に大善戦し、直江兼続の軍は予想以上の大損害を被りました。」

(子)

「目立つ兜を被って口が達者な割には案外弱いですね・・・・。」

(隆)

「全く(笑)。結局、長政殿の活躍もあって関ヶ原の戦いで石田三成ら西軍が1日で敗北し、伊達軍が本格的に最上氏救援に動き出した為、いくら生意気で強気な兼続でもさすがに敗北を悟りました。」

(子)

「責任を感じた兼続は切腹しようとしたとか?」

(隆)

「はい。しかし、周囲の者が米沢への帰還を説得し、上杉軍は撤退することとなりました・・・・。とまあ、これから先は長政殿が詳しいでしょう?」

(子)

「そうですね・・・・。敗戦後、上杉景勝は兼続を伴って家康様の下に赴き、正式に謝罪しました。」

(隆)

「『当家家老(上杉家の家老である直江兼続)が目立つ兜を被っただけの戦下手で外交下手な未熟者だった為に西軍に味方してしまいました、どうぞ許してください』と厚かましくも徳川家へ詫びを入れにいったのですね?」

(子)

「小早川殿らしからぬエグい表現ですが、まさに仰る通りです。しかし、そうは問屋がおろしません。家康様は、上杉家の全領地120万石の内、米沢30万石を残して没収するという厳しい処分を下しました。」

(隆)

「いやいや、長政殿。それは全く厳しくありませんぞ!」

(子)

「どういうことです?」

(隆)

「我が本家の毛利一族は、兼続と同じ立場の毛利家家老・吉川広家(毛利輝元の従兄弟で小早川隆景の甥にあたる)が最初から東軍に心を寄せ、立場上は西軍であっても実際に東軍との戦闘に参加しないように配慮したにもかかわらず、全121万石の内、周防国・長門国(いずれも山口県)36万石以外を全て没収されています。身内びいきのようですが、そもそも戦いの原因を作り、実際に東軍と戦闘した上杉家と殆ど処分が変わらないようなのですが・・・・。」

(子)

「なるほど・・・・。しかし、その後の兼続は『石田三成との個人的な親交を理由に、上杉家を西軍の首謀者に仕立て上げた奸臣(悪い家臣)』として身内の上杉家中からも激しい非難にさらされました。領地が4分の1に減った上杉家では家臣の減俸(減給)を行わざるをえなくなったからです。」

(隆)

「そうでしょうな・・・・。」

(子)

「確かに、私が出会った頃の兼続は『愛』の兜がひたすら目立ち、自らの才能と太閤様からの信頼を鼻にかける生意気なヤツでした。しかし、関ヶ原の戦いで4つのの挫折、つまり戦場での武将としての挫折、上杉家の外交官としての挫折、主人を滅亡の危機に追い込んでしまった家臣としての挫折、そして同僚から激しいヒンシュクをかった人間としての挫折、を経験したことで、はじめて直江兼続という人物は一人前の武将になったような気がします・・・・。」

(隆)

「なるほど・・・・。」

(子)

「事実、主君・上杉景勝からの信頼は関ヶ原敗戦後も変わらず、引続き上杉家の運営を任されましたが、領地収入が4分の1に減った後も将士の召し放ち(リストラ)を行わず、自ら質素倹約に努め、新田や特産品の開発を奨励して経済的苦境を凌ぎました。また、実子に先立たれた兼続は養子を取らず、兼続の死後に直江家は断絶しました。これは『自身の失策で会津120万石を失って経済的に苦しい上杉家に、自分が死ぬことで直江家の俸禄(給与)3万石だけでも返還したい・・・・。』という日頃の思いから、養子を迎えよとの景勝の命令も拒んで直江家をわざと断絶させたようです。」

(隆)

「あれ程兼続を目の敵にしておられる官兵衛殿の息子にしては、長政殿も意外に冷静で柔軟な視点をお持ちですね。少々驚きましたぞ。」

(子)

「私は智謀や世渡りでは父・官兵衛にかないません。しかし、自分に正直に、相手にも一定の敬意を持って謙虚に生きていくことならば父に負けない気がするのです。」

(隆)

「なるほど・・・・。長政殿も言いますなあ!結構結構。」

(子)

「そういう隆景殿も遺言で『筑紫大名が休息地を求めても貸すな!』と仰ったとか?筑紫大名とはどう考えても我が父・黒田官兵衛ですよね?」

(隆)

「だって、ホントに官兵衛殿は腹黒いんだもん!私の父(毛利元就)も数々の罪深い謀略や暗殺を行いましたが、その比ではないかもしれませんぞ。」

(子)

「あ~あ。何故私の父はあんなに自惚れが強くて腹黒いんだろう・・・・?」

(隆)

「そ・れ・は・・・・。」

(父)

「ええ加減にせい!」

(隆・子)

「次回は『天下三陪臣』についてで~す!」

[続く]

直江兼続①・・・・「愛」の兜を被った小生意気な青二才

2011 年 2 月 15 日

(子)

「おはようございます、小早川殿!」

(隆)

「本日は『愛』の兜を被った小生意気な青二才、つまり上杉景勝の家老・直江兼続の話をするお約束でしたな・・・・。」

(子)

「今さら、と言われそうですが・・・・。」

(隆)

「確かに。一昨年のNHK大河ドラマの時期に合わせるべきでしたな。ところで、直江兼続の主人・上杉景勝のことについて、長政殿はどの程度ご存知ですかな?」

(子)

「関ヶ原の戦い以降のことしか存じませぬ・・・・。」

(隆)

「実は、『愛』の兜を被った小生意気な青二才を知ろうとするならば、まずはその主君・上杉景勝のことを知らねばなりませぬ。」

(子)

「なるほど。」

(隆)

「人の才覚や評価が生まれで定まるとは私も思いませぬが、直江兼続無くして上杉景勝という戦国大名は存在せず、上杉景勝という主君がいなければ直江兼続という武将が世に名を知られることはなかったでしょう。」

(子)

「どういうことでしょう?」

(隆)

「越後国(新潟県)の戦国大名で、『軍神』と呼ばれた上杉謙信公の跡継ぎとして知られる上杉景勝ですが、彼自信は最初から上杉家の当主になることが約束されていたわけではありませんでした。景勝の実父は謙信公の同族で長尾政景といい、一度は謙信公に反乱を起こしたこともありましたが、後に許されて謙信公の姉を妻に迎えました。」

(子)

「なるほど。そして、後に景勝は叔父である謙信公の養子になったわけですね。」

(隆)

「当時、謙信公にはもう一人養子がおり、上杉景虎といいました。こちらは、武田信玄公と並ぶ上杉家のライバル・北条氏康殿の一子で、やはり上杉家と北条家が休戦した際に養子としてやってきたのです。」

(子)

「しかし、景勝は謙信公の血の繋がった甥。近親者である景勝を謙信公が後継者にするのは当然では?」

(隆)

「そのように思われていることも多いのですが、最近の研究ではどうも上杉景勝よりも上杉景虎の方が後継者として考えられていたようです。そういえば、前・関東管領で発言力のあった上杉憲政殿(北条家との争いに敗れ、上杉家に養われていた)も、何故か宿敵・北条氏の血縁であるはずの上杉景虎を応援していますし、そもそも『景虎』という名前は謙信公が若い頃に名乗っていた名前でもあります。」

(子)

「なるほど。そして、謙信公は後継者名をはっきり言わずに急逝したんですよね?」

(隆)

「その通り。ここで上杉景勝と、そして景勝以上に野心家だった兼続は早速行動を開始します。まず、兼続が謙信公の遺言書を偽造し、景勝は謙信公の後継者と称して上杉本家の居城・春日山城内の要塞と金蔵を制圧してしまいました。」

(子)

「まずは、謙信公の直接的な遺産である現ナマを押えたわけですか?何だか生々しいですね。」

(隆)

「更に、景虎方の有力者である先述の上杉憲政等を暗殺し、景虎に味方していた隣国・甲斐国(山梨県)・信濃国(長野県)の大名・武田勝頼(信玄の子)を先程の現ナマで買収してしまいました。結局、実家・北条家からの支援も間に合わず、景虎は自殺して果てました。」

(子)

「先手必勝とはいえ、随分卑怯なやり方ですね。」

(隆)

「しかし、『御館の乱』と呼ばれたこの後継者戦争で、兼続は当代最高の知恵袋として上杉景勝の厚い信任を獲得し、後に上杉本家代々の重臣・直江家の未亡人と再婚して直江兼続と名乗ることとなります。」

(子)

「その後は?」

(隆)

「間もなく本能寺の変が発生しましたが、その後は黒田家や我が毛利家同様に、上杉家は太閤様と共に歩む道を選び、景勝・兼続主従は北条征伐や朝鮮半島出兵等で活躍しました。」

(子)

「活躍といっても、当時の大名家としては当たり前のことで小早川家や毛利家は勿論、我が黒田家も必死で戦いましたぞ!」

(隆)

「ごもっとも・・・・。北条征伐において、最終的に北条家が戦いを諦めたのは官兵衛殿の説得によるものでしたからな・・・・。」

(子)

「父が聞いていたら、またここで自慢話が始まるところでしたな・・・・。」

(隆)

「そうですな(笑)。しかし、ただ他の大名家と同じことをしていただけの割には太閤様から上杉家への待遇は実に手厚いものでした・・・・。会津国(福島県)を治めていた蒲生氏郷が亡くなると、越後国(新潟県)に代えて会津国を上杉氏に与え、更に兼続にも直々に米沢30万石が領地として与えられました。これにより、上杉家の総石高は120万石に達しました。」

(子)

「その頃の我が父の領地は豊後国(大分県)中津12万石・・・・。そして兼続は大名でもなく、家老の身分でありながら30万石・・・・。どうりで父上が妬むわけだ・・・・。」

(隆)

「官兵衛殿は直江兼続が実力以上に有名になり過ぎたこともお気に召さぬようですが、確かにこの領地分配のバランスは不公平ですな。」

(子)

「父は、太閤様が織田家の武将として播磨国(兵庫県南西部)を転戦していたころから仕えていました。それを、太閤様の絶頂期に突如現れた新人が重役待遇で入ってきては面白くないですよね。しかも、小早川殿が隠居して五大老(「大老」は閣僚級の役職)を引退したことから、新たに上杉景勝が五大老の一人に任命されたのもこの頃ですね?」

(隆)

「勿論、太閤様の行動には理由がありました。上杉家が置かれた会津国の南には、かつて太閤様と互角以上に戦った徳川家の治める関東8カ国があり、北には同じく有力大名の独眼龍・伊達政宗が治める奥州がありました。これらの有力大名を上杉家が監視し、牽制することを太閤様は期待していたのです。」

(子)

「そういえば、兼続が治めた出羽国(山形県)米沢は政宗の生まれ故郷。政宗にとっては何とも苦々しかったでしょうね。」

(隆)

「更に、五大老の一人となった景勝の代理として太閤様に頻繁に会うようになった兼続は、豊臣家五奉行(「奉行」は省庁の長官級の役職)の一人で、太閤様の秘書官とでもいうべき石田三成と親しくなります。」

(子)

「そして、彼等は運命の関ヶ原を迎えるのですね・・・・。」

[続く]

九州三国志の終焉と名島城・・・・九州三国志⑦

2011 年 1 月 12 日

(一同)

「新年明けましておめでとうございます!」

(湛)

「(傘の上で枡を回しながら・・・・)いつもより余計に回しておりま~す!」

(室)

「これこれ、何をしておる?どこかで聞いたようなセリフじゃぞ。」

(湛)

「一応、本年も宜しくお願いしますということで・・・・。さあ、今回の九州三国志はいよいよ九州における戦国時代の終焉ですね。」

(室)

「左様。豊後国(大分県)・戸次川の戦いで長宗我部殿ら豊臣軍別働隊に大勝した島津軍だったが、太閤様(豊臣秀吉)が豊臣軍本隊20万余りを率いて南下を開始すると、情勢は逆転した。まず、かつて島津氏と覇を競った肥前国(佐賀県・長崎県)の龍造寺隆信殿の子・龍造寺政家は早くから豊臣家に臣従することを誓ってきた。」

(湛)

「龍造寺家の家老・鍋島直茂(信生から改名)は太閤様が天下統一を成し遂げることを確信し、龍造寺政家殿に豊臣家に従うように説得したんですよね?」

(室)

「そのとおり。しかも、かつて島津軍と協力して沖田畷で龍造寺軍と戦った島原半島の有馬晴信も島津氏を見限って豊臣家に従うことを決めた。更に、豊臣軍の猛攻にさらされた島津氏最大の同盟者・秋月種実が遂に降参し、筑前国周辺は太閤様の支配するところとなった。」

(湛)

「かつての同盟者が次々と太閤様の軍門に降り、島津氏は外交的に孤立させられたんですね。」

(室)

「島津軍は劣勢を挽回すべく、かつて大友軍を破った日向国(宮崎県)・耳川の地で総力を尽くして反撃に出たが、逆に島津方の重要拠点・高城を豊臣秀長様(秀吉の弟)に攻め落とされてしまった。」

(湛)

「島津殿は?」

(室)

「相次ぐ敗戦に島津義久殿はこれ以上の抵抗は無理と判断し、自らは出家して弟・島津義弘に当主の座を譲って太閤様に許しを請うた。」

(湛)

「結局、九州三国志の勝者は、大友氏でも島津氏でも龍造寺氏でもなく、天下人・豊臣秀吉公だったのですね?」

(室)

「そういうことだ。太閤様は九州の大名配置を見直し、豊前国(福岡県東部他)を黒田如水殿と細川忠興に分け与え、筑前国(福岡県西部)には九州征伐で活躍した小早川隆景殿を、筑後国(福岡県南部)には同じく島津軍の猛攻から立花山城を守りきった立花宗茂を置いた。更に、肥前国の龍造寺氏の重臣・鍋島直茂を高く評価した太閤様は、直茂を龍造寺氏から独立させ諫早に領地を与えた。肥後国(熊本県)には佐々成政が越中国(富山県)から入国し、九州北部の領地分配は終わったが・・・・。」

(湛)

「問題は南ですね・・・・。」

(室)

「そのとおり。いち早く豊臣家に臣従し、一連の戦いで最も大きな被害を蒙った大友家については引続き豊後国の領有を認め、島津氏についても代々の本拠である薩摩国(鹿児島県西部)の領有を認めることまではスンナリ決まった。」

(湛)

「残る日向国と大隅国(鹿児島県東部)は?」

(室)

「太閤様は大友家の戦いぶりを評価し、宗麟殿個人の隠居料、つまり年金代わりに日向国を与え、島津軍との戦いで長男・信親を喪った長宗我部元親殿についても気の毒なので、同じく報償として本国・土佐国(高知県)とは別に大隅国を与えるつもりだったそうな。」

(湛)

「なるほど・・・・。」

(室)

「しかし、宗麟殿も元親殿も辞退した為、島津氏に味方して筑前国を追われた秋月種実や高橋元種、かつての日向国守護大名・伊東氏等を日向国に置き、大隅国については島津氏の領有を認めることとなった。また、島津家の家老・伊集院忠棟を太閤様鍋島直茂や立花宗茂同様に高く評価し、都城を領地として与えて特別扱いとした。」

(湛)

「ようやく多くの血が流れた九州の戦国乱世が終わったのですね・・・・。その後の三国の行方は?」

(室)

「島津氏が太閤様に降参して間もなく、大友氏の全盛期を築いた大友宗麟殿は病でこの世を去った。息子の大友吉宗は、その後の朝鮮半島の戦で味方を見捨てて逃げ出す等の失態を繰り返し、太閤様に所領を全て没収された。更に、関が原の戦いでは黒田如水様から東軍に誘われたにも拘らず、九州の西軍としてかつての部下を率いて戦い、領地奪回の夢は叶わなかった。しかし、子孫は徳川将軍家の旗本になって続いたそうな。」

(湛)

「島津殿は?」

(室)

「島津氏では、半独立状態となった重臣・伊集院忠棟を粛清したことから、伊集院氏残党への対応に追われ、関が原の戦いでは1500余りの小部隊しか戦場に送れなかった。しかも、徳川軍との感情的な行き違いから西軍に参加したことから後々まで徳川幕府にニラまれる結果となった。島津家はそれから200年以上後の幕末の動乱期にその鬱憤を晴らすことになる。」

(湛)

「龍造寺殿は?」

(室)

「龍造寺殿の義弟であり、重臣でもあった鍋島直茂が龍造寺家を切り盛りすることになるが、彼の活躍についてはまたいずれ・・・・。」

(湛)

「この間からそればっかりですね!」

(室)

「そんなことよりも、本日は黒田様と共に名島城で年始の茶会に招かれておるのじゃ・・・・。一緒に参ろう。」

(湛)

「名島城!?どなたからのお招きですか?」

(室)

「それは内緒じゃ。さ、早う早う!」

  • * *

(黒田家一同)

「宗室殿!宗湛殿!」

(室)

「これはこれは、如水様に長政様。」

(湛)

「それにご家中の皆様、明けましておめでとうございます。」

(父)

「新年の茶会に二人揃って来て頂けて、主催者も満足であろう。」

(湛)

「それでは、本日の茶会は黒田様主催ではないのですか?私はてっきり太兵衛様が亭主役を務められるのかと思っておりましたが?」

(子)

「我等が太兵衛の点てた茶を飲むことは今後一切ありえぬ。」

(太)

「殿ぉ、それはあんまりでござる!せっかく今日こそは反省してヌルくて薄~いお茶を点てようと思っていたのに・・・・。」

(又)

「太兵衛殿、それだけは止めてくだされ。拙者は、以前太兵衛殿が点てた濃すぎて煮えたぎったお茶の味を今でも夢で思い出して目が覚めるのですぞ!」

(室)

「太兵衛様、今少し精進なさいませ。」

(太)

「残念~。」

(????)

「宗室殿!宗湛殿!ご無沙汰いたしております。」

(室・湛)

「あなたは!?」

 

(GUEST)

小早川隆景・・・・1533~1597年。戦国時代~安土桃山時代の武将。「三矢の教訓」で有名な中国地方の戦国大名・毛利元就の三男。毛利氏と同じく安芸国(広島県)の豪族であった小早川氏の養子となった。小早川水軍を率いて父・元就を援け、毛利家を中国地方最大の大名にすることに成功した。父の死後は実兄・吉川元春と共に甥である毛利輝元を支え、両川体制とも呼ばれた。豊臣秀吉の器量を早くから見抜き、本能寺の変後は豊臣家に従うことを主張した。その後は豊臣軍の一員として九州・小田原・朝鮮半島の戦場で活躍し、九州平定後は筑前国を領地として与えられ、名島城に入城する。晩年には豊臣家を支える五大老の一人となり、秀吉の甥・小早川秀秋を養子として迎えた。黒田氏が筑前国に入るのはその後である。以下、(隆)と表記。

(室)

「なるほど。本日の亭主役は小早川様でしたか。」

(隆)

「いやいや、博多一の数奇者といわれるお二人をもてなすようにと黒田殿から頼まれまして。新年早々お二人に我が居城へお越し頂いたわけです。」

(湛)

「博多の復興の件では随分お世話になりました。」

(隆)

「いえいえ。博多の復興は天下の一大事業。私は太閤様のご指示に従ったまでで。」

(子)

「宗室殿、宗湛殿には昨年一年間皆様を案内する大役を引受けて頂き、感謝の言葉もない。」

(又)

「しかも、商人のお立場で九州三国志の群雄についても説明して頂き、私なども勉強になりました。」

(太)

「実のところ、大殿に戦の話をして頂くと、どうしても自慢話が永くて苦情が殺到して困っていたのでござる。」

(父)

「黙れえっ!」

(室)

「黒田様、まあまあ。」

(湛)

「せっかくですから、小早川様のお手並みでお茶を点てて頂きましょ。」

  • * *

(父)

「しかし、小早川殿のお点前で新年の茶を頂けるとはありがたいものじゃ。」

(又)

「小早川様は黒田家以前にこの筑前国を治めたお方。この名島城を整備されたのも小早川様ですね?」

(隆)

「もともと、博多を勢力下に置いた大友家は立花山城(福岡県新宮町)を拠点に筑前国を支配していたのですが、名島城はその立花山城の海側の支城として使われていたのです。」

(子)

「何故名島城へ?」

(太)

「小早川家中には強力な小早川水軍がおられるゆえ、その運用の為でござろう?」

(室)

「確かにこの名島城ならば、水軍衆を配置すれば直ちに軍港として機能しますし、水軍を用いて大量の軍需物資を運ぶことも出来ますしな。」

(湛)

「そう考えると、名島城というのは、城というよりも巨大な軍港ですね。」

(隆)

「今では二の丸・三の丸の石碑と、本丸跡に建つ名島神社にしか面影は残っておりませぬが(笑)・・・・。」

(父)

「いやいや、そのようなことはない。我等や小早川殿が太閤様の先陣として九州に入ったことで、九州の戦国乱世が終わったのだから、この城は平和な時代のモニュメントといっても良いのでは?」

(子)

「それに、名島城の遺構は福岡城内の『名島門』や、崇福寺の『唐門』にも残っておりますし。」

(又)

「小早川様は太閤様が九州を平定される以前から毛利家の大将として筑前国・豊前国で大友軍と戦った経験もあり、九州の武将の生き字引。今度は小早川様のお話をうかがってはいかがでしょう?」

(室)

「妙案ですな。」

(隆)

「私は一介の武将でとてもそのような大役は・・・・。」

(湛)

「大丈夫ですヨ!二つだけ覚えておけば良いんです。不確かな記憶は『もう忘れちゃったけど多分・・・・』、自信があるときだけ『・・・・で間違いございません』と言えば大丈夫です!」

(室)

「こら!」

(又)

「確か、殿から小早川殿にリクエストがあるそうで・・・・」

(子)

「実は、父・如水が『愛』の兜の武将のことを『大したことない青二才の癖にワシより有名になりおって!』と妬んでいたもので・・・・。」

(太)

「確かにそうでござったな!」

(父)

「おい!」

(隆)

「では、その大役承知いたしましょう・・・・。まずは、その『愛』の兜を被った小生意気な青二才に絡んだお話ですな。では、次回の聞き役は長政殿にお願いします。」

(湛)

「では、久しぶりに・・・・。」

(一同)

「????」

(湛)

「シーユーネクストアゲイン!」

(室)

「恥ずかしいから、そのノリはやめい!」

[続く]

悲劇!素人が率いた四国最強軍団・・・・九州三国志⑥

2010 年 12 月 1 日

(湛)

「前回は『博多』を巡る戦国最終決戦『岩屋城の戦い』についてお話しましたが、今回からいよいよ九州全土を巡る最終決戦についてお話ししていきます。」

(室)

「うむ。前回も述べたように、岩屋城の戦いには間に合わなかったものの、総兵力20万ともいわれる豊臣軍が筑前国(福岡県西部)に上陸した。そして、島津軍の多くが転進した豊後国(大分県)には大友氏を救援するべく四国方面から豊臣軍別動隊が上陸した。」

(湛)

「なるほど。」

(室)

「四国方面から上陸した豊臣軍は、土佐(高知県)国主の長宗我部元親・信親父子が率いる長宗我部勢、讃岐(香川県)国主・十河存保率いる十河勢、そして太閤(豊臣秀吉)様の側近・仙石『権兵衛』秀久が軍監として加わった。」

(湛)

「軍監と言えば、全軍のお目付け役を意味する臨時の司令官のようなポジション・・・・。それが『権兵衛』さんですか?権兵衛さんといえば、京都を荒らしまわった盗賊『石川五右衛門』を捕えたことで有名な豪傑ですが、大軍を指揮した経験のない体育会系の新米司令官。そんな大役を任せて大丈夫なんでしょうか?」

(室)

「確かに。土佐国の長宗我部元親殿といえば、『土佐の出来人』と呼ばれ、土佐の一豪族から四国全土を統一した名将であり、同じく讃岐の十河存保殿も、かつては室町幕府を主導していた管領代・三好家の出身。どちらも権兵衛さんより勇名が知れ渡っており、で実戦経験も豊富だ」

(湛)

「つまり、高校野球で四国選抜のエースチームを素人監督が率いていたようなものですね・・・・。」

(室)

「ともかく、仙石秀久もとい、権兵衛さんに率いられた四国最強軍団約6,000名は無事に豊後国に上陸した。この頃、圧倒的な兵力を集中した島津軍は大友氏代々の本拠地・府内城を攻めるべく快進撃を続けていた。この段階では太閤様も大友宗麟殿も豊臣軍と大友軍の合流を最優先と考えており、兵力で優っている島津軍に攻撃を仕掛けることを固く禁じていた。」

(湛)

「しかし、太閤様や宗麟殿がそのような考えでも、お調子者の権兵衛さんは違う考えだったのでは?」

(室)

「その通り。四国最強軍団を指揮下に入れた権兵衛さんは、調子に乗って『連戦連敗の大友軍に俺様が豊臣流の戦い方を教えてやろう!』と鼻息を荒くしていた。」

(湛)

「つまり、太閤様の命令に逆らってこちらから島津軍に攻撃を仕掛けようということですね?連戦連勝の太閤様の下でしか戦ったことのない権兵衛さんは、島津軍を完全にナメきっていた。だから、仮に軍令違反を犯しても島津軍に勝ちさえすれば太閤様も許してくれるだろうとタカをくくっていたようですが、本当に大丈夫でしょうか・・・・?」

(室)

「勿論、権兵衛さんよりもはるかに実戦経験豊富な長宗我部殿と十河殿は反対した。」

(湛)

「当然ですよね権兵衛さんは勿論、長宗我部殿も十河殿も、九州に来るのも島津軍と戦うのも初めてのはず。まずは情報収集の為にも地元っ子の大友軍との合流を目指すべきなのに・・・・。」

(室)

「ようやく道案内役の大友軍100名余りが合流したが、情報として入ってきたのは島津軍の兵力は倍近い1~2万名だという悪い話だけ・・・・。」

(湛)

「無謀な権兵衛さんを必死に諌める長宗我部殿と十河殿の顔が眼に浮かびますね・・・・。」

(室)

「豊後国の戸次川を挟んで島津軍に対陣した四国最強軍団6000名の内、権兵衛さん直卒の淡路勢が約1000、長宗我部殿の土佐勢が約3000、十河殿の讃岐勢が約2000といわれている。恐らく短気な権兵衛さんが直卒の1000名で先陣を切ると言い出したのであろう。」

(湛)

「きっと権兵衛さんが長宗我部殿や十河殿に『一万や二万の兵が恐いのか!臆病者め!後で秀吉様にチクってやる!』とか言って強がってみせたんでしょうね。」

(室)

「うむ。そこまでいわれては、という訳で長宗我部父子も十河殿も不本意ながら権兵衛さんの後に続いた。」

(湛)

「島津軍の方は?」

(室)

「島津側は沖田畷で龍造寺隆信殿を敗死させた名将・島津家久(島津義久の弟)や重臣の新納忠元率いる1万数千の兵を戸次川に展開させていた。」

(湛)

「お互い、不用意に川を渡るのは危険な状態ですね。」

(室)

「そうじゃ。島津軍の大将・家久は高台に本陣を構え、豊臣軍の出方を待った。」

(湛)

「賢明です。」

(室)

「逆に豊臣軍の大将・権兵衛さんは深い考えもなく遮二無二突進を命じた。」

(湛)

「何と愚かな!」

(室)

「そのとおり。10倍以上の敵に突撃した権兵衛さん直卒の淡路勢は島津軍と接触するや否やアッという間に撃破されてしまった。」

(湛)

「権兵衛さんがいくら馬鹿な大将でも後続の長宗我部軍や十河軍は助けない訳にはいかないですよね?」

(室)

「長宗我部軍も十河軍も数倍の敵を相手に突撃を敢行した。中でも、長宗我部元親殿の嫡男・長宗我部信親殿は『土佐の出来人』の跡継ぎに相応しい戦いぶりを見せた。だが、十河存保殿が戦死し、一人奮戦した長宗我部信親も島津方の新納忠元の軍勢に取り囲まれて力尽きた。」

(湛)

「長宗我部元親殿は?」

(室)

「将来を期待していた長男が戦死し、ショックの余り茫然自失の状態となった為、家臣達が長宗我部殿を連れて豊後国から脱出し、舟で瀬戸内海の日振島まで退却した。」

(湛)

「権兵衛さんの無謀な作戦のせいで、四国最強の長宗我部軍・十河軍も壊滅したわけですね。で、肝心の権兵衛さんは?」

(室)

「権兵衛さんは卑怯なことに敗走する味方を差し置いて我先にと四国まで逃げ帰り、島津軍からは『三国一の臆病者』と物笑いの種にされた。」

(湛)

「信親殿の亡骸を受け取りに来た長宗我部家の使者に対して島津の武将・新納忠元が『長宗我部殿の御曹司と分かっていれば死なせなかったものを・・・・』と弔いの言葉を述べているのとは対照的ですね。」

(室)

「『1頭の羊に率いられた狼の群れは、1頭の狼に率いられた羊の群れに敗れる』というフランス皇帝ナポレオンの名言があるが、この『戸次川の戦い』の為にあるような言葉じゃ。つまり、いくら指揮下に長宗我部・十河といった猛者(狼)が揃っていても、それを指揮する大将が素人の権兵衛さん(羊)ではどうしようもなかったということじゃな。この敗戦にはさすがの太閤様も激怒し、権兵衛さんの領地を没収して追放してしまわれた。」

(湛)

「その後の戦況は?」

(室)

「大友宗麟殿の息子・大友吉統はとうとう府内城(大分市)を放棄して豊前国(福岡県東部)へ退却したが、宗麟殿自身が臼杵城の戦いで島津軍を撃退することに成功した。本来、豊臣軍本隊が進出してくる前に九州全土を征服するつもりだった島津軍だが、その後大友軍が各地で激しい反撃に出た為、結局タイムリミットまでに豊後国を制圧出来ず、最も恐れていた太閤様自らが指揮する豊臣軍本隊と激突することになるが、それはまた次回・・・・。」

[続く]

「吉塚」に秘められた博多の最終決戦・・・・九州三国志⑤

2010 年 10 月 30 日

(湛)

「『商都・博多』に因んだよもやま話と並行する形で進んできた『九州三国志』ですが、今回は2つのお話がクロスする形になります。」

(室)

「その通り。『耳川の戦い』で大友氏を、『沖田畷の戦い』で龍造寺氏を、それぞれ破った島津氏は、文字通り九州統一を目指して北上を開始した。島津氏が繰り出した兵力はおよそ5万。」

(湛)

「ルートは?」

(室)

「まず、島津氏の本国・薩摩(鹿児島県)を起点にして、肥後国(熊本県)・筑後国(福岡県南部)等で味方を集めつつ大宰府・博多を目指す西回りルート・・・・。」

(湛)

「まるで、現在工事が進んでいる九州新幹線みたいなルートですね?」

(室)

「そして、大友氏を破った日向国から豊後国(大分県)の佐伯・臼杵を抜けて府内(大分市)を目指す東回りルート・・・・。」

(湛)

「こちらはJR日豊本線の特急『にちりん』ですね?」

(室)

「そうだな。但し、東回りルートは最終的に西回りルートと合流させる予定だったのかも知れぬ。」

(湛)

「進捗は?」

(室)

「結果的には西回りルートの方が早く大宰府付近に到達した。」

(湛)

「やっぱり新幹線が『にちりん』に勝ちましたか!」

(室)

「鉄道から離れろっ!」

(湛)

「イテッ!」

(室)

「話を戻そう。別に東回りルートが山がちな地形の為に時間がかかった訳ではない。東回りは大友氏の本拠地を直接攻めることになり、西回りルートよりも時間がかかって当たり前なのじゃ。しかも、西回りルートの場合は目的地の大宰府付近に島津氏の強力な同盟者である秋月城(福岡県朝倉市秋月)の秋月種実がおり、島津氏と秋月氏に挟まれた豪族達は次々と島津軍に加わった。」

(湛)

「大宰府到達まで西回りルートの島津軍は殆ど抵抗らしい抵抗を受けなかった訳ですね。」

(室)

「この頃、大友宗麟殿はもはや単独では島津軍の猛攻を防ぎきれないと判断し、天下統一を目指す太閤(豊臣秀吉)様の軍門に降り、豊臣家の家臣となることを申し出ていた。一方、大宰府まで進出した島津軍の最終目的地は、言うまでもなく商都・博多。これに対し、大友軍は博多最終防衛ラインで島津軍を待ち構えた。」

(湛)

「最終防衛ライン?」

(室)

「大宰府の背後に位置する宝満山に築かれた宝満山城と、その出城である岩屋城、そして現在の福岡市東区から新宮町にまたがる巨大山城・立花山城の3城じゃ。ここが落城すれば、博多も島津軍に手に落ちてしまう。」

(湛)

「大友軍の指揮を執るのは?」

(室)

「筑前・筑後国方面の総指揮官であり、大友宗麟殿の信任厚い名将・高橋紹運。彼はたった700騎の兵を率いて岩屋城に入り、島津軍を迎え撃つ体制を整えた。更に、立花家の養子となっていた長男・立花宗茂にも最重要拠点・立花山城の守りを固めるように伝えた。」

(湛)

「しかし、対する島津軍は一族の島津忠長や重臣の伊集院忠棟率いる本隊に加え、筑後勢を率いる星野吉実・吉兼兄弟、日向勢を率いる上井覚兼、同盟軍の秋月氏等合わせて20000名以上とか?勝ち目は全くないじゃないですか?」

(室)

「それは違う。この頃大友家は既に太閤(豊臣秀吉)様の軍門に従っており、高橋紹運にとっての勝利とは豊臣家の援軍が九州にやってくるまでの時間をかせぐことだったのだ。それに、兵力では島津軍が圧倒的に有利だったが、連戦連勝の島津軍を見て日和見的に参加した味方も多く、士気では大友軍が優っていたようだ。更に、高橋紹運は岩屋城の防塁を強化して少しでも兵力の差をカバーすることに心を砕いた。」

(湛)

「そして、1586年7月12日に島津軍の攻撃が始まったのですね?」

(室)

「しかし、決死の覚悟で臨む大友軍の抵抗は凄まじく、ひとつひとつの郭(防御拠点)を血で洗う激戦となった。」

(湛)

「高橋紹運の強さを知る島津軍は何度も降伏勧告を行ったとか?」

(室)

「うむ。しかも、降伏勧告といっても『岩屋城さえ明け渡してくれれば攻撃しない』という島津軍が大幅に譲歩した内容だったそうだ。」

(湛)

「随分下手ですね?」

(室)

「しかし、所詮は多勢に無勢。約2週間に及ぶ攻防の後、島津軍が岩屋城本丸に迫ると、高橋紹運は櫓の上に登って切腹し、700名余りの大友軍の将兵も全員壮絶な戦死を遂げた。」

(湛)

「文字通り玉砕したわけですね。南無阿弥陀仏・・・・。」

(室)

「しかし、彼等の死は無駄ではなかった。島津軍の死傷者は3000名を超え、計略で宝満山城までは攻め落としたものの、次の目標である立花山城への攻撃は困難になった。」

(湛)

「そして、その間に総兵力20万ともいわれる豊臣軍が九州に接近し、島津軍は立花山城攻略を諦めて兵を退いたのですね。」

(室)

「左様。しかし、実父・高橋紹運を岩屋城で失った立花宗茂は『父の敵討ち!』とばかりに島津軍を追撃する。一方、島津軍に参加した筑後勢の大将・星野吉実・吉兼兄弟は、島津軍本隊が次々に豊後国へ転進する中、『筑後武士の意地を見せてくれよう!』と、わずかな兵と共に高鳥居城(福岡県須恵町)で立花宗茂軍を迎え撃った。敵討ちに燃える立花軍と、敵中に孤立しても尚高い士気を誇る星野軍は激しく戦ったが、勢いに乗り数でも優る立花軍の前に星野吉実・星野吉兼兄弟も力尽き、筑後勢は儚く全滅した。」

(湛)

「岩屋城とは逆に、今度は島津方に殉じた将兵が皆命を落としたわけですね。」

(室)

「立花宗茂の目には、星野兄弟のことが実父の敵としてよりも、父同様に自らの責務を全うした誠の勇将として映ったはずじゃ。」

(湛)

「父を失った悲しみよりも、戦の空しさの方が重く感じられたかも知れませんね。」

(室)

「多分そうであろう。立花宗茂は星野吉実を弔い、現在の県庁近くに塚を築いた。その塚は『吉実塚』と呼ばれ、それが後に吉塚の語源となったと言われておる。」

(湛)

「なるほど!星野吉実こそが今回の影の主人公、つまり吉塚の地名の由来というわけですね。」

(室)

「左様。『吉塚』の地名には、博多を巡る戦国の最終決戦と、星野兄弟が見せた『筑後武士の意地』が秘められている訳じゃ。」

(湛)

「『吉実塚(吉塚地蔵堂)』はエンクレスト吉塚から近い商店街の入口に祠が立っており、地域の方から大切に維持・管理されています。皆様、是非一度足をお運び下さい。」

[続く]

戦国最大の番狂わせ!龍が島原に墜ちた!・・・・九州三国志④

2010 年 9 月 30 日

(湛)

「さて、九州三国史は今回で4回目ですが、本命だった大友氏が島津氏に敗れた後、龍造寺氏が急速にのし上がってきましたね。とうとう筑後国の中心、柳川城まで龍造寺隆信は手に入れたんですよね?」

(室)

「うむ。当時彼は『五ヶ国二島の太守』と呼ばれ勢力は絶頂期にあった。大友氏の本国である豊後国(大分県)、島津氏が支配する薩摩国・大隅国(いずれも鹿児島県)・日向国(宮崎県)を除く九州の大部分が龍造寺氏の勢力圏になったのだ。」

(湛)

「しかし、急速に拡大した勢力とは裏腹に龍造寺氏に反感を持つ勢力も増えていったようですが?」

(室)

「その通り。まず、同輩である蒲池鎮並の最期を知った筑後国の豪族たちが龍造寺氏に公然と反抗し始めた。更に、肥後国の有力武将・赤星統家の幼い息子達(14歳と8歳の兄妹)を隆信殿が処刑した為、赤星氏は島津氏の支援を受けて反龍造寺氏の急先鋒となった。」

(湛)

「せっかく筑後国を押え、肥後国に進出したのに、方々で反発を喰らったのですね。」

(室)

「しかも、反龍造寺勢力の多くは薩摩国・大隅国・日向国を基盤に北上を開始した島津氏を頼った。」

(湛)

「龍造寺殿の残忍で傲慢な振る舞いは、やがて対決するであろう島津氏に利する結果になってしまったのですね?」

(室)

「しかも、更にショッキングな出来事が龍造寺氏を震撼させた。お膝元である肥前国でも島原半島に根を張る有馬氏までが龍造寺氏に背いたのじゃ。」

(湛)

「有馬氏の当主、有馬晴信はかつて龍造寺氏に敗れ、龍造寺氏隆信殿の長男・龍造寺政家に姉妹を嫁がせて龍造寺氏傘下に入っていたんですよね?」

(室)

「つまり、隆信殿から見ると長男の嫁の実家・・・・ということになる。そこで、非情にも息子・政家に『妻の実家を征伐して来い!』とばかりに有馬攻めを命じた。」

(湛)

「ですが、風の噂では龍造寺政家殿は優しい上に病弱、およそ戦国の世に向かない後継者だったとか?」

(室)

「だから、隆信殿も息子の尻を叩いて督促するものの、全くらちが明かない。」

(湛)

「そりゃあ、嫁の実家を攻撃しろと父ちゃんに急かされてもねえ・・・・。」

(室)

「何じゃ!その口の利き方は?」

(湛)

「いやあ、結婚とは二人だけのものではなく、やはり家と家の交わり・・・・。親に言われた位で簡単に戦争を仕掛けたりは出来るはずないですよ。分かるなあ・・・・。」

(室)

「お前も自分の親と妻の実家の板ばさみなのか・・・・?」

(湛)

「い、いやいや・・・・。何でもありません!独り言です・・・・(汗)。」

(室)

「まあ、良い。しかし、龍造寺隆信殿の有馬氏攻撃命令は本気だった。息子には任せておけぬとばかりに、腹心の鍋島直茂殿や龍造寺四天王等5万7000の大軍を自ら率いて島原半島遠征軍を組織した。」

(湛)

「有馬氏側の動きは?」

(室)

「当時の有馬氏が動員できた兵力は約3000名程度。単独では勝ち目がない。そこで、当主・有馬晴信は龍造寺氏と並ぶ強豪であった薩摩の島津義久殿に支援を要請した。龍造寺氏と島津氏は肥後国を巡って敵対関係にあり、島津・有馬両氏の利害が一致したわけだ。」

(湛)

「しかし、当時の島津氏は肥後南部を手に入れたばかり。よく島原半島まで兵を出しましたね。」

(室)

「うむ。当然ながら島津氏内部にも出兵に難色を示す者がいた。どう考えても当時島原半島に島津氏が出せる援軍は龍造寺軍の10分の1程度だったからだ。だが、島津義久殿は『同盟国の救援要請を無視するわけにはいかない』と明言し、先の耳川の戦いで活躍した末弟・島津家久に選りすぐりの兵3000名を付けて送り出した。」

(湛)

「そしていよいよ、龍造寺軍VS島津・有馬連合軍の決戦が始まったわけですね。」

(室)

「有馬晴信の本拠地・日野江城は現在の島原城から更に南方にあり、龍造寺氏の大軍は島原半島を続々と南下した。この時の逸話として、龍造寺隆信殿自身は肥り過ぎて馬に乗れず、輿に担がれていたそうだ。」

(湛)

「かなりメタボだったのかなあ?因みに龍造寺軍は相手方の動きをどの程度察知していたのでしょうか?」

(室)

「兵力的には自軍が優勢ということは分かっていたようじゃ。但し、島津・有馬連合軍が日野江城に籠城して龍造寺軍を待ち受けるだろうと予測していたフシがある。兵力の少ない方が防御力の高い砦や城に籠って相手方の攻撃を防ごうとするのは常識じゃからな。」

(湛)

「だが、そうはならなかった?」

(室)

「左様。連合軍は現在の島原市付近の湿地帯・沖田畷で龍造寺軍を待ち構えた。」

(湛)

「叔父さん、それじゃ不親切というものですよ!」

(室)

「えっ?」

(湛)

「読者の皆様には『沖田畷』と書いて『おきたなわて』と読むってお伝えしないと!」

(室)

「それもそうだな・・・・。皆様大変失礼致しました。」

(湛)

「みんながみんな、我々の様に漢字検定1級という訳ではないのですから。」

(室)

「誰が漢字検定1級だ!?ウソはいかんぞ、宗湛。」

(湛)

「へへ、実は私がずっと『沖田畷』のフリガナを知らなかったもので・・・・。」

(室)

「まあ、良い。話を戻すと、島津軍の総大将・島津家久は、耳川の戦いと同様に、味方の小部隊を囮として龍造寺軍を誘い出し、その退路を断って包囲することにした。」

(湛)

「島津軍は再び『野釣り伏せ陣(小部隊を囮にして大友軍を釣り出し、逆包囲する)』で今度は龍造寺氏の大軍に挑んだのですね?」

(室)

「もともと龍造寺軍が兵力で圧倒していたこともあって、作戦は図に当たった。わざと敗走するフリをして後退する島津軍を龍造寺軍の各隊は深追いし過ぎ、気付いた時には沖田畷のぬかるみに足を取られて身動きが出来なくなってしまっていた。」

(湛)

「龍造寺軍は大軍の為に統率が取れなくなってしまったのですね?」

(室)

「龍造寺隆信殿は眼前の敵を撃破することばかりに気を取られ、最前線の指揮官達に伝令を出して強行突破を命じるが、それは却って自殺行為となり、龍造寺軍の名のある武将が次々に戦死した。」

(湛)

「そこへ島津軍が龍造寺軍の背後へ回りこんで退路を遮断したのですから、大変ですね。」

(室)

「龍造寺軍本陣は大混乱に陥り、龍造寺隆信殿は島津軍の武将・川上忠堅にあっけなく討ち取られた。」

(湛)

「何と!?」

(室)

「主君が戦死したことを知った龍造寺四天王や側近は、次々に敵陣に切り込んで戦死し、唯一優勢に戦っていた重臣・鍋島信生も佐賀へ退却した。龍造寺軍の犠牲は数千名といわれておる。」

(湛)

「肥前の熊、いや佐賀の龍は自ら蒼天へと昇り始めた矢先に突然墜ちたのですね・・・・。」

(室)

「既に時代は『本能寺の変』『賤ヶ岳の戦い』を経て太閤様(豊臣秀吉)が天下統一事業を仕上げていた段階であり、龍造寺殿が仮に戦死しなかったとしても、後に九州征服にやってきた豊臣軍には勝てなかったかもしれないが、それでも佐賀の小豪族から九州に覇を唱えて一時代を築いた龍造寺隆信殿を佐賀の人々、いや九州の人々は誇りにするべきだと思うぞ。」

(湛)

「そうですね・・・・。因みにその後の龍造寺氏は?」

(室)

「龍造寺殿の義弟であり、重臣でもあった鍋島信生が龍造寺家を切り盛りすることになるが、彼の活躍についてはまたいずれ・・・・。」

(湛)

「次回は博多を巡る九州最後の大決戦についてお話しま~す!」

[続く]

博多商人を代表するはず・・の!?島井宗室の墓はどこだ!?

2010 年 9 月 1 日

(湛)

「さあて、博多の寺院訪問もやっとここまで来ましたね。」

(室)

「歴代の黒田藩主が眠る崇福寺!」

(湛)

「ホントは叔父さんのお墓があるから来たかっただけなんデスヨ・・・・。」

(室)

「やかましい!」

(湛)

「でも、確かに崇福寺は葬られている方々がBIGというだけでなく、建造物も由緒あるものが多いですよね?」

(室)

「その通り!まず正面に見えてくる立派な山門は、かつての福岡城本丸の表門じゃ。」

(湛)

「なるほど・・・・。福岡城跡に残っている建造物が少ないことを考えると、これは貴重ですね。しかも、この門構えはお寺というより城郭の方がしっくりきますね」

(室)

「それだけではないぞ。この奥に見えている唐門は名島城より移されたものと伝わっているのだ。」

(湛)

「名島城といえば、毛利元就公の三男で太閤(豊臣秀吉)様の信頼も厚かった名将・小早川隆景殿が、現在の東区名島に築いた安土桃山時代の城ですね。」

(室)

「左様。自ら小早川水軍を率いていた隆景殿らしく、水軍基地としても利用出来、黒田長政殿が福岡城を築くまでは文字通り筑前国(福岡県西部)の政庁として機能していた名城なのだ。」

(湛)

「現在では、跡地の小高い丘に名島神社と小さな石碑が残るのみの幻の城でもありますよね。」

(室)

「だからこそ、この崇福寺に残された唐門と福岡城の名島門(やはり名島城から移された門)は、名城・名島城を知る上で貴重な遺構なのだ。」

(湛)

「そうだったんですね!それだけでも崇福寺に来る価値がありますね?歴代黒田藩主が眠るという墓地の方にも行ってみましょうよ!」

  • * *

(室)

「墓地の南の方は・・・・?おお、ここは玄洋社の墓地か!?」

(湛)

「玄洋社といえば、かつて福岡に拠点を置いた政治団体ですね?」

(室)

「左様。もともとは幕末の外国からの圧力を、天皇中心の政治体制で打ち払おうとする筑前勤王等出身の頭山満らが創設した団体だ。現在でいうところのNGOにも似たところがあり、そのネットワークは強力で、辛亥革命を成功させた孫文や蒋介石も玄洋社の支援を受けていたほどだ。」

(湛)

「現在ではあたかも過激派やテロ集団と勘違いされることも多いようですが・・・・?」

(室)

「そんなことはない。社員の来島恒喜が大隈重信(明治時代の首相、早稲田大学を創設)に爆弾テロを敢行したことや、『大アジア』思想を高らかに唱えていたことから誤解を生んでいるようだが、一方で、『人民の権利を固守』とも主張しており、戦後にも玄洋社出身者が閣僚や福岡市長等の要職に就いている・・・・。戦前の総理大臣・犬養毅や廣田弘毅も玄洋社との関係が深かった。」

(湛)

「そう聞くと、ごく普通の政党やNGOのようですね?」

(室)

「その通り。今では福岡市民でも玄洋社の名を知る人は少なくなってきているが、幾多の名士を育んだ母体としてもう少し認知・評価されて良いと思うぞ。」

(湛)

「激動の時代に生まれ、激動の時代に幕を閉じた頭山満ら玄洋社の面々は今ここで静かに眠っているわけですね・・・・。」

(室)

「今度は墓地の北側へ参ろう。」

  • * *

(湛)

「叔父さん、この門は何でしょう?」

(室)

「藤水門・・・・。これは黒田長政殿以下、歴代黒田藩主の墓所じゃな。」

(湛)

「神聖な場所として門の中には入れないようになっていますね。」

(室)

「気持ちは分かるが、ここだけの話、黒田官兵衛殿は目立ちたがり屋の寂しがり屋・・・・。多くの市民が官兵衛殿を郷土の英雄として毎日訪ねた方が喜ぶと思うがな・・・・。」

(湛)

「そうですね(笑)。」

(室)

「さあて、アレはどこだ?アレ・・・・?」

(湛)

「叔父さんも意外と目立ちたがり屋なんですね?どうせ、『博多三商傑・島井宗室』が眠る瑞雲庵を探しているんでしょ?」

(室)

「(ギクッ)・・・・。コホン。宗湛よ、そこまで私の気持ちを察しているのならば、あちらの建物で聞いてきてくれ・・・・。」

(湛)

「ハイハイ。全く叔父さんは人使いが荒いんだから・・・・。ちょっとすいませ~ん!」

  • * *

(室)

「どうであった?」

(湛)

「それが・・・・。」

(室)

「どうしたのだ?」

(湛)

「受付の方いわく、『わかる者が外出しております!』とのことでした・・・・。」

(室)

「ガーン!」

(湛)

「叔父さん、何だか顔色が悪いですよ!」

(室)

「不祥、島井宗室!これでも博多三商傑の一人として、天下の御用商人とも言われたのに・・・・。」

(湛)

「きっと叔父さんが年寄り臭い説教ばかりあちこちでするから煙たがられてるんですよ!子孫にもそんな家訓を残してたでしょ?」

(室)

「(キッとにらんで)それ以上言うな!」

(湛)

「と、とにかく崇福寺は良い歴史スポットです!貴重な建築物も多く、歴代黒田藩主をはじめ、博多に由来の深い方々がたくさん眠っています。でも、お願いですから私の叔父、島井宗室の墓『瑞雲庵』が分かる方を常駐させて下さ~い!」

(室)

「・・・・。」

(湛)

「さぁさぁ、叔父さん大丈夫ですか?しっかりして下さい。ボクもこの暑さの中で叔父さんを担いで帰るのは無理ですからね!フラフラしないでちゃんと歩きましょうね!シーユーネクストアゲイン!」

[続く]

「肥前の熊」の雄飛と柳川城主・蒲池氏の悲劇・・九州三国志③

2010 年 8 月 2 日

(湛)

「さて、九州三国史は今回で3回目ですが、本命の大友氏が『耳川の戦い』で敗れてレースが混沌としてきましたね。」

(室)

「うむ。『耳川の戦い』大友氏にとって痛恨の敗北であった。いや、命取りとなったと言うべきかも知れぬ。何故なら、その影響は単なる『日向国(宮崎県)遠征の失敗』に留まらなかったのだ。」

(湛)

「と言うと?」

(室)

「例えば、筑後国の軍勢を率いて戦死した蒲池鑑盛の子、蒲池鎮並は龍造寺氏に接近した。また、大友氏の弱体化を好機として秋月城の秋月種実もまた龍造寺氏と盟約を結んだ。更に、大友方であった肥後国人吉城の相良義陽も島津氏の軍門に降った。肥後国北部にも龍造寺氏の勢力も伸び、かつて肥後国を支配した菊池氏の流れを汲む隈部親永・赤星統家等の有力武将が龍造寺氏と誼を結んだ。そして、当の龍造寺隆信殿も筑前国(福岡市を含む福岡県東部)や筑後国(福岡県南部)に直接侵攻し、大友家の勢力範囲を積極的に攻撃した。」

(湛)

「大友氏にとってはまさに泣き面に蜂ですね。」

(室)

「そうじゃな。特に龍造寺氏の台頭は深刻であった。龍造寺氏に呼応するように豊前国(福岡県北部)の領主達も大友氏に叛旗を翻し、かつて大友氏が支配した九州6ヶ国の内、本国である豊後国以外は反大友勢力の攻撃に晒されることとなった。以前述べたように、大友氏の領国や軍勢は各地方領主の寄せ集めであったから、大友氏の安全保障能力について信用がなくなると、大友宗麟殿の支配圏は音を立てて崩れ出した。」

(湛)

「そこで、宗麟殿の庇護を受けていた叔父さんも新たな庇護者として織田信長公と面会することにした訳ですね。」

(室)

「うむ。」

(湛)

「しかし、龍造寺隆信殿は信じられない位に強い大名ですね。流石は『肥前の熊』と言われるだけことはある。」

(室)

「龍造寺殿の人物を考える場合に参考になるのが、『分別も久しくすればねまる』という彼自身の言葉と、『肥前の国主(龍造寺隆信)は配慮と決断、カエサルに似たり!』というイエズス会神父の評論だ。」

(湛)

「『分別も久しくすればねまる』というのは、ここぞという時には迅速果断に決断しなければならないという意味ですよね?」

(室)

「そうじゃ。たとえ、それがどれほど勇気の要る決断だったとしてもな。そして、彼の決断の素早さは天下の覇者、織田信長公にも通じるところがあった。」

(湛)

「どういうことです?」

(室)

「龍造寺隆信殿と織田信長公には共通点が多いということじゃ。」

(湛)

「ほう?」

(室)

「例えば、両者とも出自からすると一国の主にはなれない家柄じゃ。龍造寺家は肥前国を支配する少弐家の家老クラス、織田家は尾張国(愛知県)の守護大名・斯波氏の奉行クラス。平時であれば、それぞれのブロックの覇者は勿論、一国の主にもなれなかったであろう。」

(湛)

「そういえば、性格も少し短気で癇癪持ちですよね?」

(室)

「信長公の性格を表すたとえとして、『鳴かぬなら、殺してしまおうホトトギス。』という有名な言葉がある。信長公の思い通りにならぬ存在は抹殺するという、極めて独裁的で専制的な性格だったのは間違いない。同族や長年仕えた重臣に対しても容赦しなかった故、信長公の後半生は続発する家臣の反乱に悩まされ、最後は重臣の明智光秀殿に討たれている。」

(湛)

「ということは、龍造寺殿も?」

(室)

「うむ。もともとは龍造寺氏も短期間で九州の覇者となった家柄。戦いに強かっただけでなく、周辺勢力と政略結婚で同盟を結んでもいた。だが、龍造寺隆信殿は、長男の嫁の実家や娘婿であっても容赦しなかった。例えば、筑後国・蓮池城主の小田鎮光も龍造寺氏参加の有力武将で、娘婿でもあったが、龍造寺殿は小田鎮光を佐賀に呼び寄せて弟もろとも暗殺してしまった。」

(湛)

「乱世とはいえ、長い目で見て良い方法だったのでしょうか」

(室)

「当然、非情な人物という風評は立ったであろうな。そして、更に悲劇は続いた。」

(湛)

「他にも?」

(室)

「うむ、同じく龍造寺殿の娘婿に柳川城主・蒲池鎮並がいた。」

(湛)

「前回お話した『耳川の戦い』で大友軍に参加して戦死した蒲池鑑盛の子ですね。蒲池鎮並は領民からも信望が厚く、武勇に秀でた名将だったとか?」

(室)

「左様。難攻不落の柳川城を中心に筑後国最大の勢力を誇っていた蒲池鎮並は大友氏を裏切って龍造寺方に鞍替えし、龍造寺軍の筑後国征服に大きな貢献をしたが、蜜月はそう長くは続かなかった。」

(湛)

「あらま。」

(室)

「龍造寺氏は次第に協力者である蒲池鎮並の頭越しに筑後支配を行うようになり、一方で義父である龍造寺隆信殿の苛烈で残忍な性格を知った蒲池鎮並は父の敵である島津氏と交渉を持つようになったのじゃ。」

(湛)

「義父である龍造寺殿に知れたらタダでは済まないでしょう?」

(室)

「その通り。激昂した龍造寺隆信は2万余りの兵力で柳川城を包囲した。」

(湛)

「しかし、柳川城は無数の水路に護られた要害の地。龍造寺氏も苦戦したのでは?」

(室)

「うむ。そして、龍造寺殿は再び禁じ手を使ってしまった。」

(湛)

「というと?」

(室)

「和平の宴と称して蒲池鎮並を佐賀に呼び寄せ、暗殺してしまったのじゃ。」

(湛)

「なんと酷い!」

(室)

「主を失った蒲池氏の残党は、龍造寺氏に味方する同郷の筑後出身の軍勢に包囲され、遂には皆殺しにされた。」

(湛)

「織田信長公も敵対するものは身内や僧侶であっても容赦せず、しかも降参を許さない『根切り(皆殺し)』を良く行いましたが、結局は人心を掌握できず、重臣である明智殿に討たれました。龍造寺家中の重臣の中にも、明智殿同様に主君の行動に疑問を抱く者が出てきたのでは?」

(室)

「左様。蒲池鎮並暗殺の一件は、龍造寺四天王と呼ばれた百武賢兼(百人の武に優るという意味の苗字を与えられた、龍造寺一の勇者。現在の『百武』姓の元祖)等からも賛同を得られず、龍造寺氏に従っていた筑後国の豪族達が次々に離反する原因となってしまった。」

(湛)

「蒲池氏をだまし討ちにして柳川城を攻略したことで、『肥前の熊』の勢威は絶頂を迎えたようですが、それは同時に龍造寺氏衰退の始まりでもあったわけですね。」

(室)

「そういうことじゃ。では、この続きは次回・・・・。」

[続く]

饅頭発祥の地とは?

2010 年 7 月 7 日

(湛)

「さあて、大博通り周辺で聖福寺・東長寺と共に欠くことが出来ない寺院といえば、あとは承天寺ですね?」

(室)

「うむ。承天寺を開山した聖一国師は臨済宗の高僧で、栄西禅師と同様に中国大陸(宋)に渡って禅を学び、帰国後に博多に承天寺を開いたのだ。」

(湛)

「承天寺の建立には、有力武将や貿易商からの寄付があったとか?」

(室)

「左様。例えば、寺院建設に必要な資材を提供したのは博多在住の豪商・謝国明殿だという。」

(湛)

「謝国明殿といえば、以前大河ドラマの『北条時宗』に出ていたあの妖しい貿易商ですね?」

(室)

「これこれ。それは余りにも失礼であろう。謝国明殿は博多の発展にも寄与した我等博多商人の偉大な先人じゃぞ。」

(湛)

「だって、一族郎党が全員大陸風の衣装に身を包んでいて、雑技団みたいな武術を使うし、おまけに親友が松浦党の海賊ですよ。妖しくない訳ないじゃないですか!」

(室)

「・・・・。まあ良い。それから、承天寺の敷地を提供したのは大宰府の武官であり、鎌倉幕府の有力御家人でもあった武藤資頼公。」

(湛)

「武藤資頼公は鎌倉時代後期のモンゴル軍来襲の折に、九州の武士団の指揮をとった少弐資能公の父ですね?」

(室)

「その通り。資能公の代になって官職である『太宰少弐』から『少弐』氏を名乗るようになったが、当時の武藤(少弐)氏の勢力は強く、豊前国・筑前国・肥前国・壱岐国・対馬国を守護として支配していたのだ。」

(湛)

「事実上の博多の庇護者だった訳ですね。」

(室)

「左様。このことだけ見ても、承天寺の格の高さが分かるというもの。」

  • * *

(湛)

「さて、着きましたよ。」

(室)

「この門には菊の御紋がある。かつては官寺であっただけあって、勅使(天皇の使者)を通す為の勅使門がある。聖福寺の時のように勅使門に近付くでないぞ。宗湛、分かったか?」

(湛)

「は~い。おや、『饅頭素麺発祥の地(まんじゅうそうめんはっしょうのち)』とは何でしょう?」

(室)

「承天寺の開祖である聖一国師は、大陸に渡って禅の教えを学んだ一方で、まんじゅう・そうめんの製法を身に付けて帰国したのだ。」

(湛)

「なるほど。それで、まんじゅうとそうめんの製法を持ち帰ったこの博多の町に『饅頭素麺発祥の地』という石碑があるのですね。」

(室)

「うむ、没後に花園天皇より贈られた『聖一』の国師号もそういった仏教以外の功績を含めたものかも知れぬな。」

(湛)

「敷地内を見回すと、鐘楼や金堂をはじめ、いかにも禅寺らしい崇高で落ち着いた雰囲気の建物が並んでいますね。」

(室)

「最盛期と比較すればその後の戦乱で著しく規模が縮小し、戦後の区画整理で敷地内に道路が通ってしまっているが、それでも往時の雰囲気を充分に残しているな。」

(湛)

「叔父さん、この石の塊は何ですか?」

(室)

「これは、鎌倉時代に博多に来襲したモンゴル軍(元寇)が使用していた軍艦の石製の錨だな。」

(湛)

「これが、かつてユーラシア大陸全土に猛威を振るったモンゴル軍の軍艦の一部なのですね。あの時は叔父さんも大変だったでしょう?」

(室)

「うんうん、あの時は現金と小さくて高価な物を身に付けて家族や使用人と博多から肥後の菊池へ避難を・・・・。って、私が生まれたのは元寇の200年以上後だっ!」

(湛)

「へへ、冗談ですよ。」

(室)

「全く、叔父を年寄り扱いしおって!」

(湛)

「話は変わりますが、博多山笠の源流も承天寺と聖一国師だとか?」

(室)

「左様。1241年に博多の町で疫病が流行した際に、聖一国師が病魔退散の為に輿に乗って街を清めて巡ったのが由来だと言われている。」

(湛)

「それにしても、本当に承天寺は興味深い寺院ですね。鎌倉時代の大大名である少弐氏や豪商・謝国明殿の援助で建てられ、勅使門を有するような格式の高い寺院でありながら、人々の生活に根付いた饅頭や素麺、おまけに博多山笠の発祥に地でもあるなんて。政治と風俗という一見相反するものの歴史を一度に垣間見られますね。」

(室)

「ところで宗湛よ。せっかく饅頭発祥の地に来たのだから、どこかで美味い饅頭でも買って帰るか?」

(湛)

「いやだなあ、叔父さん。先程お昼を食べたばかりなのに・・・・。あまり間食ばかりしていると、メタボになっちゃいますよ!ボクは叔父さんの健康を本当に心配しているんですから。」

(室)

「(ムカッ)そうかそうか。それ程私の健康が心配ならば、大博通りの北端から南端までランニングで往復10周するか?」

(湛)

「・・・・。さあて、美味しいお饅頭屋さんはどこかな?あ、ケーキ屋さんでもいいな!」

(室)

「調子のいいヤツだ!」

[続く]