エンクレストマンションが展開する福岡市は中世からの商都「博多」と
近世(江戸時代以降)以来の武家町「福岡」を擁する双子都市として発展しました。
(父)
「皆様、改めまして黒田如水です。」
(子)
「父上、隠居されて名前を改めた一件については、前回皆様にお話し申し上げましたぞ。折角でしたら、『如水とは水の如く清らかに生きるの意です!』とか、うんちくを言えば良いものを・・・・。申し訳ございません!私がタネを明かしてしまいました。」
(父)
「・・・・。気が利かぬ息子のことは忘れて話を続けるかの。豊臣軍が九州を制圧した段階で、天下統一の障害は関東一円を支配する相模国(神奈川県)小田原城の北条氏と、伊達家をはじめとする東北の諸大名だけとなった。特に、小田原城を中心に北条早雲(伊勢新九郎)以来五代百年に亘って関東を支配した北条氏は秀吉様に従う態度を全く見せない。そこで、一計を案じた秀吉様は『小田原城の北条氏政・北条氏直父子を征伐するから、伊達政宗等の東北諸大名は小田原まで挨拶に来い!』と命じられた。」
(子)
「挨拶に来なかった者は討伐し、領地を没収すると威圧した訳ですな。」
(父)
「派手好きな秀吉様は小田原城の側に一夜で城を築き、海上には大艦隊を浮かべ、小田原城を20万と云われる軍勢で取り囲んだ。そして、次々と挨拶にやってくる伊達政宗等の東北諸大名を茶会に招き、関白・豊臣秀吉の威厳と力を見せ付け、北条父子を一気に降参させようとなされたのじゃ。」
(子)
「しかし、小田原城といえば、NHK大河ドラマの常連である武田信玄公や上杉謙信公も攻め落とせなかった名城ですな。」
(父)
「その通り。21世紀の現在では信じられぬかも知れぬが、当時を人々にとって戦国最強の武将とは織田信長公や秀吉様ではなく、無敵の騎馬軍団を率いた武田信玄公であり、もしくはその好敵手で毘沙門天の化身と畏れられた上杉謙信公だったのじゃ。どちらも、寿命が尽きたのであって、断じて信長公に戦で敗れたわけではないから、というのが一般の認識であったからのう。伊達政宗なぞは、大胆にも秀吉様の器量を量ってやろうとしてワザと遅れてやって来る始末・・・・。逆に、せっかく制圧したばかりの会津国(福島県)を没収されてピーピー泣いておったがのう。」
(子)
「政宗も可愛そうに・・・・。しかし、そうなると北条父子はなかなか降参しますまい。」
(父)
「そこでじゃ。外交術に長け、北条父子を説得出来るような人格者を小田原城に送り込むことになった。」
(子)
「『人格者』という言葉が引っかかりますが、もしかして父上のことでございますか?」
(父)
「いかにもワシじゃ。ワシは身一つで小田原城へ乗り込んだ。」
(子)
「有岡城の時の話と似ておりますな。物の本で読んだことがございますぞ!確か『デジャヴ』とか。となると・・・・、父上は再び小田原城の地下牢に放り込まれ、戻らぬ父上を秀吉様が疑って『息子の長政を殺せ』とお命じになる・・・・。ひえ〜!」
(父)
「話の腰を折るなら帰れ!」
(子)
「申し訳ございません・・・・。」
(父)
「ワシは十分お役目を果たしたぞ。『今までの戦いで北条家のプライドは十分立ったはず。これからは家名を残すことに心を砕かれよ!』と諭したのじゃ。」
(子)
「北条父子は何と?」
(父)
「以後の戦いの無益を悟った様子じゃった。これが、小田原城開城、そして天下統一の歴史的瞬間となった。倅の北条氏直は説得に訪れたワシに感謝し、家宝の名刀『日光一文字』をワシに譲ってくれた。結局、秀吉様からはロクな褒美を貰えなかったから、ワシにとっては『敵から貰った特別賞』が天下統一の唯一の記念品じゃよ。」
(子)
「そうなると、その名刀は黒田家の家宝であると共に、歴史的瞬間の目撃者である訳ですな。して、今その日光一文字はどこに?」
(父)
「それがのう、福岡市博物館で大事に保管されているんじゃが、毎年正月前後の特別展示会でしか一般公開しないそうなんじゃよ。」
(子)
「何と!」
(父)
「本当は皆様が何時でもワシの功績を称えることが出来るように、常時展示して欲しいんじゃが・・・・。福岡市博物館よ、ワシの日光一文字を常時展示してくれいっ!」
(子)
「父上、落ち着いて下さい!」
(父)
「でなければ、倅の長政が加藤清正・福島正則等と博物館に殴りこみますぞ〜!」
(子)
「それは次回以降の私の持ちネタでございますっ!」
[続く]
(父)
「さて、荒木村重の摂津国有岡城・別所長治の播磨国三木城・波多野秀治の丹波国(京都府)八上城が陥落すると、秀吉様の率いる織田軍は強敵毛利氏が治める中国方面へと駒を進めていったのじゃ。相変わらずワシは冴えていてのう、因幡(鳥取県)鳥取城なぞは現地の米を高値で買い占めた上で兵糧攻めにしたのじゃ。鳥取城の連中は自分達の兵糧が高値で売れたと喜んでいたところを織田軍に包囲されてしまい、進退窮まって降参してきおったわい。米相場を利用して敵を兵糧攻めする策を考えついたのは、恐らくワシが初めてじゃ。」
(子)
「今度も父上の自慢話でスタートですな。そしてその後、有名な備中国(兵庫県西部)高松城を秀吉様が水攻めになされた?」
(父)
「うむ、またもや秀吉様得意の兵糧攻めであったが、もともと沼地や湿地に囲まれて攻めにくいという高松城の特徴を逆手にとり、大規模な堤防工事を行って水攻めとしたのが今までと違っておった。城は水に囲まれて人っ子一人通れぬ有様であったわい。じゃが、城を守る毛利家の清水宗治はなかなかの名将で、水に囲まれて食料が不足した位では簡単に降伏しなかった。それでも、あと数日持ち堪えられるかどうかという日になって大事件が起こったのじゃ。」
(子)
「信長公が明智光秀に本能寺で討たれたのですな。」
(父)
「その通り。そして、その明智光秀からの使いが捕えられて秀吉様の陣に連れて来られたのじゃ。」
(子)
「秀吉様は何と?」
(父)
「取り乱して泣いておられた。だが、ワシは妙に冷静じゃった。そして、『秀吉様、天下へのご運が開けましたな。』と静に申し上げた。その一言で秀吉様は落ち着きを取り戻され、『官兵衛よ、どうすれば良い?』とワシに問いかけられた。その瞬間に、秀吉様の信長公への感情のようなものは吹っ切れ、冷静にご自分の天下だけを見据えることが出来るようになられたのじゃ。それ以降の秀吉様は、皆の前で信長公の偉大さを口にすることはあってもそれは建前だけで、織田家とは別個の独立した大名としての道を歩まれるようになられた。ワシの吹き込んだ一言によってのう。」
(子)
「つまり、この長政を殺せと命じた信長公が憎くて、父上は秀吉様を信長公のしがらみから解き放たれたのですな。少し嬉しいですぞ。」
(父)
「いいや、全然。あの時地下牢に閉じ込められたワシを信長公が信じてくれなかったからじゃ。」
(子)
「しくしく。やっぱり、父上はご自分が一番なのですね。」
(父)
「それ位で泣くな!話を戻そうぞ。ワシは『一日でも早く明智光秀を討つと共に、信長公の葬儀を主催することが何より肝要。』と申し上げた。秀吉様の決心が固まれば後の段取りは早い。京都へ軍勢を返す為の物資確保や道のりの決定をワシが行い、全軍はわずか一週間程度で京都近くまでUターン出来たのじゃ。」
(子)
「その後は、謀反人ということで畿内に孤立した明智光秀、更に織田家後継者会議で孤立した織田家筆頭家老の柴田勝家を秀吉様が次々に倒し、その成功の陰には常に父上がおられたことは、この長政耳にタコが出来る程何回も聞いておりまする。」
(父)
「ところが、ところが・・・・じゃよ。ワシが本能寺の変の一件を聞いて冷静に『秀吉様、天下へのご運が開けましたな。』と申し上げたことから秀吉様にひどく警戒されるようになってしまったのじゃ。まあ、ワシが余りにも優秀過ぎて手に余ると思われたのかのう・・・・。」
(子)
「父上、自慢話をしながら暗くなるのは止めて下され。」
(父)
「ともかく、秀吉様にとって一番の功労者であるにもかかわらず、領地が豊前国(大分県)中津のたった十二万石であったとしても我慢しておったワシに、秀吉様がとどめの一言を仰ったのじゃ。『俺の死後、天下を獲るのは瘡頭の奴じゃ』と皆の前で仰ったそうな。しくしく。」
(子)
「瘡頭、つまり頭に皮膚病の痕がある者とは父上のことですな。つまり、黒田官兵衛は天下を狙っており信用できぬ、と。」
(父)
「酷い話じゃよ・・・・。しかも皆の前で、ワシがルックスで一番気にしている皮膚病の痕を指摘するなんて・・・・。それを人伝に聞いたワシは、脱サラ・・・・基い、長政に後を託して隠居することにし、名前も『黒田如水』と改めることにしたわけよ。」
(子)
「父上、サラリーマンは辛うございますな・・・・。」
【其の四 〜敵から貰った特別賞!〜】へ続く
(父)
「そもそも我等が歴史に登場するのは、織田信長公が近畿地方から中国地方へと軍を進めていた1570年代後半のこと。当時、我が故郷播磨国(兵庫県南西部)方面の織田軍を率いていたのが豊臣秀吉様。当時は羽柴秀吉と名乗っておられた。ワシは地元の土地勘と人脈を見込まれて秀吉様の軍勢に参加した訳じゃ。従って、仕事は専ら地元の豪族達を一人でも多く織田軍に引き抜く、つまりヘッドハンティングじゃな。」
(子)
「そして、何かが起こった訳ですな。」
(父)
「そうじゃ。摂津国(大阪府大阪市・堺市付近)の支配を信長公から任されていた大々名、荒木村重が信長公に背いたのじゃ。」
(子)
「すると、父上は普段のヘッドハンティングの交渉術を買われて、荒木村重の気持ちを変えるように説得を命じられた訳でございますな。」
(父)
「そうじゃ。もともと荒木村重が背いた原因は、織田信長公から疑われていると信じ込んだのが原因じゃった。疑われていると信じ込んだ故に、信長公への態度がよそよそしくなる。村重の態度がよそよそしいので、信長公は本当に村重を疑ってしまった・・・・。現代にもある悲しい気持ちのすれ違いじゃな。でも、ワシにはその経緯が良く分かっておったし、荒木村重とは共通の友人もいたので、ワシは自信をもって村重が立て篭もる有岡城に乗り込んだ。ところがじゃ・・・・。」
(子)
「事態は最悪の方向に向かった?」
(父)
「有岡城に入ってまず気付いたのは、荒木村重の覚悟と準備が並々ならぬものであるということじゃった。摂津国中の城に一族や腹心の武将を配置し・・・・、まあこれは当然のことじゃが、有岡城自体の食料や防備は織田軍に包囲されても一年は耐えられそうな準備をしておった。しかも、織田家に敵対する毛利輝元や別所長治と同盟を結んで織田軍来襲に備えていたのじゃ。ワシは結局、村重の堅い気持ちを変えることが出来ず、一年以上に間地下牢に捕えられてしもうた。」
(子)
「それで、父上は歩行が困難になった上に、地下牢の不衛生な環境で皮膚病にかかってしまわれたのですね。」
(父)
「ぐすん・・。そうじゃ。それ以後、ワシは馬ではなく輿に乗らねばならなくなり、醜い皮膚病の痕を隠す為に人前では頭巾を被らねばならなくなったのじゃよ。でも、命があっただけ良かったぞ。」
(子)
「しかし父上。父上がご不在の間、私自身の命も危うかったとか?」
(父)
「その通り。ワシが荒木村重に捕えられたとは夢にも思わぬ織田信長公は『黒田官兵衛はきっと裏切ったに違いない。ならば、長男の黒田長政を殺してしまえ!』と命じられたのじゃ。」
(子)
「ひえ〜。信長公は何と理不尽な!たとえ、明智光秀が本能寺を襲わなかったとしても、きっとその疑り深い性格故に誰か別のものから背かれて命を落とされたことでございましょう。」
(父)
「そうじゃな。でも、捨てる神あれば拾う神あり。ワシの先輩軍師、竹中半兵衛殿が誰にも内緒でお前を匿ってくれたのじゃよ。」
(子)
「思い出しましたぞ!私は竹中半兵衛様から『父上は必ず戻ってくる。それまでは辛抱せよ。』と慰められながら、父上の帰りを待ったものです。」
(父)
「あの頃の長政は素直で良い子であったのにのう・・・・。」
(子)
「(ギクッ)」
(父)
「まあ、それは良いとして、結局一年後には織田軍が有岡城を攻略し、ワシも長政も自由の身になった訳じゃ。」
(子)
「本当に華々しく・・・・ないデビューですな。結局、父上の自信過剰が、父上は元より私の命まで危険に晒してしまったのではございませぬか?父上は本当に若い頃から『知略に長けた軍師』と恐れられていたのですか?どうも間違いのような・・・・。きっとNHKの『戦国のナンバー2』も下から数えたナンバー2のような気が致しまするが・・・・。」
(父)
「だまれえっ!」
[続く]【其の弐 〜一番の功労者なのに〜】へ続く
(黒田官兵衛。以下、父と表記)
「ワシの名は黒田官兵衛。豊臣秀吉・・・・基い、大閤様の参謀役として天下統一に貢献した武将じゃ。智謀においてワシに並ぶ軍師は居なかったように言われる程じゃ。何年か前にNHKの番組で取り上げられた時のタイトルも『戦国のナンバー2』であったかのう。」
(黒田長政。以下、子と表記)
「それがしは、長男の黒田長政でございます。父上は昔から自慢話が好きでして。皆様にはお気を悪くなさいませんように。全国レベルでは私のことを『黒田官兵衛の長男』としてしかご存知ない方もおられるかも・・。私こそが江戸時代の初代福岡藩主にして、僭越ながら福岡の名付け親でございます。これより皆様に黒田家の歴史と福岡の由来について知って頂きたく、我等父子が案内役を引受けさせて頂いた次第です。」
(CAST)
黒田官兵衛・・・・1546〜1604年。安土桃山時代の武将。
「官兵衛」は通称で、正式には「黒田孝高」。隠居後の「黒田如水」の名前でも有名。若い頃より織田軍に参加し、豊臣秀吉に従う。特に、本能寺の変〜小田原征伐までの期間における秀吉の参謀役としての活躍は有名で、秀吉の天下統一を決定的なものとした。馬に跨り剣を振う武将達とは違い、参謀役として外交や謀略に徹していた故、智将としてのイメージが強い。但し、非常に目立ちたがり屋で冷徹な野心家であったとの風説もある。黒田長政・・・・・・1568〜1623年。安土桃山時代〜江戸時代初期の大名。黒田官兵衛の長男。
父と共に若い頃から豊臣秀吉に仕える。但し、あくまでも参謀役に徹した父とは違い、自ら馬に跨り剣を振う武闘派の前線指揮官であった。父である黒田官兵衛に比べると智謀では父に劣っているイメージがあるが、関ヶ原の戦いでの西軍切り崩しは長政自身の功績であり、なかなか智謀に長けた人物でもあったと言える。また、福岡にとっては街の名付け親として、初代福岡藩主としても縁深い。
〜「福岡」の生みの親 編〜
エンクレストマンションが展開する福岡市。福岡市が中世からの商都「博多」と近世(江戸時代以降)以来の武家町「福岡」を擁する双子都市として発展してきたことをご存知の方は多いと思います。
でも・・・?先程強調したように、街としてはより長い歴史を持つ「博多」に対して、「福岡」の地名が歴史上に登場するのはずっと後の江戸時代初めです。つまり、「福岡」という地名は、江戸時代に彗星の如く登場し、それから三百年足らずで現在の県名・県庁所在地名となった極めて劇的な存在だと云えます。
それでは、そもそもの「福岡」の地名の由来と、江戸時代の「福岡藩黒田家」について知って頂く為に、戦国の世を生き抜いたこちらの方々にご登場願いましょう。
このサイトは、一応書き手が史実に基づいて(一部想像も交えて)綴ったものです。
しかし、最新の研究や諸先輩方の学説等とは内容が異なる場合も考えられます。
記載内容についてのコメントはお受けしておりません。
ご理解の程をお願いいたします。