エンクレストマンションが展開する福岡市は中世からの商都「博多」と
近世(江戸時代以降)以来の武家町「福岡」を擁する双子都市として発展しました。
(湛)
「さて、九州三国史は今回で4回目ですが、本命だった大友氏が島津氏に敗れた後、龍造寺氏が急速にのし上がってきましたね。とうとう筑後国の中心、柳川城まで龍造寺隆信は手に入れたんですよね?」
(室)
「うむ。当時彼は『五ヶ国二島の太守』と呼ばれ勢力は絶頂期にあった。大友氏の本国である豊後国(大分県)、島津氏が支配する薩摩国・大隅国(いずれも鹿児島県)・日向国(宮崎県)を除く九州の大部分が龍造寺氏の勢力圏になったのだ。」
(湛)
「しかし、急速に拡大した勢力とは裏腹に龍造寺氏に反感を持つ勢力も増えていったようですが?」
(室)
「その通り。まず、同輩である蒲池鎮並の最期を知った筑後国の豪族たちが龍造寺氏に公然と反抗し始めた。更に、肥後国の有力武将・赤星統家の幼い息子達(14歳と8歳の兄妹)を隆信殿が処刑した為、赤星氏は島津氏の支援を受けて反龍造寺氏の急先鋒となった。」
(湛)
「せっかく筑後国を押え、肥後国に進出したのに、方々で反発を喰らったのですね。」
(室)
「しかも、反龍造寺勢力の多くは薩摩国・大隅国・日向国を基盤に北上を開始した島津氏を頼った。」
(湛)
「龍造寺殿の残忍で傲慢な振る舞いは、やがて対決するであろう島津氏に利する結果になってしまったのですね?」
(室)
「しかも、更にショッキングな出来事が龍造寺氏を震撼させた。お膝元である肥前国でも島原半島に根を張る有馬氏までが龍造寺氏に背いたのじゃ。」
(湛)
「有馬氏の当主、有馬晴信はかつて龍造寺氏に敗れ、龍造寺氏隆信殿の長男・龍造寺政家に姉妹を嫁がせて龍造寺氏傘下に入っていたんですよね?」
(室)
「つまり、隆信殿から見ると長男の嫁の実家・・・・ということになる。そこで、非情にも息子・政家に『妻の実家を征伐して来い!』とばかりに有馬攻めを命じた。」
(湛)
「ですが、風の噂では龍造寺政家殿は優しい上に病弱、およそ戦国の世に向かない後継者だったとか?」
(室)
「だから、隆信殿も息子の尻を叩いて督促するものの、全くらちが明かない。」
(湛)
「そりゃあ、嫁の実家を攻撃しろと父ちゃんに急かされてもねえ・・・・。」
(室)
「何じゃ!その口の利き方は?」
(湛)
「いやあ、結婚とは二人だけのものではなく、やはり家と家の交わり・・・・。親に言われた位で簡単に戦争を仕掛けたりは出来るはずないですよ。分かるなあ・・・・。」
(室)
「お前も自分の親と妻の実家の板ばさみなのか・・・・?」
(湛)
「い、いやいや・・・・。何でもありません!独り言です・・・・(汗)。」
(室)
「まあ、良い。しかし、龍造寺隆信殿の有馬氏攻撃命令は本気だった。息子には任せておけぬとばかりに、腹心の鍋島直茂殿や龍造寺四天王等5万7000の大軍を自ら率いて島原半島遠征軍を組織した。」
(湛)
「有馬氏側の動きは?」
(室)
「当時の有馬氏が動員できた兵力は約3000名程度。単独では勝ち目がない。そこで、当主・有馬晴信は龍造寺氏と並ぶ強豪であった薩摩の島津義久殿に支援を要請した。龍造寺氏と島津氏は肥後国を巡って敵対関係にあり、島津・有馬両氏の利害が一致したわけだ。」
(湛)
「しかし、当時の島津氏は肥後南部を手に入れたばかり。よく島原半島まで兵を出しましたね。」
(室)
「うむ。当然ながら島津氏内部にも出兵に難色を示す者がいた。どう考えても当時島原半島に島津氏が出せる援軍は龍造寺軍の10分の1程度だったからだ。だが、島津義久殿は『同盟国の救援要請を無視するわけにはいかない』と明言し、先の耳川の戦いで活躍した末弟・島津家久に選りすぐりの兵3000名を付けて送り出した。」
(湛)
「そしていよいよ、龍造寺軍VS島津・有馬連合軍の決戦が始まったわけですね。」
(室)
「有馬晴信の本拠地・日野江城は現在の島原城から更に南方にあり、龍造寺氏の大軍は島原半島を続々と南下した。この時の逸話として、龍造寺隆信殿自身は肥り過ぎて馬に乗れず、輿に担がれていたそうだ。」
(湛)
「かなりメタボだったのかなあ?因みに龍造寺軍は相手方の動きをどの程度察知していたのでしょうか?」
(室)
「兵力的には自軍が優勢ということは分かっていたようじゃ。但し、島津・有馬連合軍が日野江城に籠城して龍造寺軍を待ち受けるだろうと予測していたフシがある。兵力の少ない方が防御力の高い砦や城に籠って相手方の攻撃を防ごうとするのは常識じゃからな。」
(湛)
「だが、そうはならなかった?」
(室)
「左様。連合軍は現在の島原市付近の湿地帯・沖田畷で龍造寺軍を待ち構えた。」
(湛)
「叔父さん、それじゃ不親切というものですよ!」
(室)
「えっ?」
(湛)
「読者の皆様には『沖田畷』と書いて『おきたなわて』と読むってお伝えしないと!」
(室)
「それもそうだな・・・・。皆様大変失礼致しました。」
(湛)
「みんながみんな、我々の様に漢字検定1級という訳ではないのですから。」
(室)
「誰が漢字検定1級だ!?ウソはいかんぞ、宗湛。」
(湛)
「へへ、実は私がずっと『沖田畷』のフリガナを知らなかったもので・・・・。」
(室)
「まあ、良い。話を戻すと、島津軍の総大将・島津家久は、耳川の戦いと同様に、味方の小部隊を囮として龍造寺軍を誘い出し、その退路を断って包囲することにした。」
(湛)
「島津軍は再び『野釣り伏せ陣(小部隊を囮にして大友軍を釣り出し、逆包囲する)』で今度は龍造寺氏の大軍に挑んだのですね?」
(室)
「もともと龍造寺軍が兵力で圧倒していたこともあって、作戦は図に当たった。わざと敗走するフリをして後退する島津軍を龍造寺軍の各隊は深追いし過ぎ、気付いた時には沖田畷のぬかるみに足を取られて身動きが出来なくなってしまっていた。」
(湛)
「龍造寺軍は大軍の為に統率が取れなくなってしまったのですね?」
(室)
「龍造寺隆信殿は眼前の敵を撃破することばかりに気を取られ、最前線の指揮官達に伝令を出して強行突破を命じるが、それは却って自殺行為となり、龍造寺軍の名のある武将が次々に戦死した。」
(湛)
「そこへ島津軍が龍造寺軍の背後へ回りこんで退路を遮断したのですから、大変ですね。」
(室)
「龍造寺軍本陣は大混乱に陥り、龍造寺隆信殿は島津軍の武将・川上忠堅にあっけなく討ち取られた。」
(湛)
「何と!?」
(室)
「主君が戦死したことを知った龍造寺四天王や側近は、次々に敵陣に切り込んで戦死し、唯一優勢に戦っていた重臣・鍋島信生も佐賀へ退却した。龍造寺軍の犠牲は数千名といわれておる。」
(湛)
「肥前の熊、いや佐賀の龍は自ら蒼天へと昇り始めた矢先に突然墜ちたのですね・・・・。」
(室)
「既に時代は『本能寺の変』『賤ヶ岳の戦い』を経て太閤様(豊臣秀吉)が天下統一事業を仕上げていた段階であり、龍造寺殿が仮に戦死しなかったとしても、後に九州征服にやってきた豊臣軍には勝てなかったかもしれないが、それでも佐賀の小豪族から九州に覇を唱えて一時代を築いた龍造寺隆信殿を佐賀の人々、いや九州の人々は誇りにするべきだと思うぞ。」
(湛)
「そうですね・・・・。因みにその後の龍造寺氏は?」
(室)
「龍造寺殿の義弟であり、重臣でもあった鍋島信生が龍造寺家を切り盛りすることになるが、彼の活躍についてはまたいずれ・・・・。」
(湛)
「次回は博多を巡る九州最後の大決戦についてお話しま~す!」
[続く]
(湛)
「さあて、博多の寺院訪問もやっとここまで来ましたね。」
(室)
「歴代の黒田藩主が眠る崇福寺!」
(湛)
「ホントは叔父さんのお墓があるから来たかっただけなんデスヨ・・・・。」
(室)
「やかましい!」
(湛)
「でも、確かに崇福寺は葬られている方々がBIGというだけでなく、建造物も由緒あるものが多いですよね?」
(室)
「その通り!まず正面に見えてくる立派な山門は、かつての福岡城本丸の表門じゃ。」
(湛)
「なるほど・・・・。福岡城跡に残っている建造物が少ないことを考えると、これは貴重ですね。しかも、この門構えはお寺というより城郭の方がしっくりきますね」
(室)
「それだけではないぞ。この奥に見えている唐門は名島城より移されたものと伝わっているのだ。」
(湛)
「名島城といえば、毛利元就公の三男で太閤(豊臣秀吉)様の信頼も厚かった名将・小早川隆景殿が、現在の東区名島に築いた安土桃山時代の城ですね。」
(室)
「左様。自ら小早川水軍を率いていた隆景殿らしく、水軍基地としても利用出来、黒田長政殿が福岡城を築くまでは文字通り筑前国(福岡県西部)の政庁として機能していた名城なのだ。」
(湛)
「現在では、跡地の小高い丘に名島神社と小さな石碑が残るのみの幻の城でもありますよね。」
(室)
「だからこそ、この崇福寺に残された唐門と福岡城の名島門(やはり名島城から移された門)は、名城・名島城を知る上で貴重な遺構なのだ。」
(湛)
「そうだったんですね!それだけでも崇福寺に来る価値がありますね?歴代黒田藩主が眠るという墓地の方にも行ってみましょうよ!」
(室)
「墓地の南の方は・・・・?おお、ここは玄洋社の墓地か!?」
(湛)
「玄洋社といえば、かつて福岡に拠点を置いた政治団体ですね?」
(室)
「左様。もともとは幕末の外国からの圧力を、天皇中心の政治体制で打ち払おうとする筑前勤王等出身の頭山満らが創設した団体だ。現在でいうところのNGOにも似たところがあり、そのネットワークは強力で、辛亥革命を成功させた孫文や蒋介石も玄洋社の支援を受けていたほどだ。」
(湛)
「現在ではあたかも過激派やテロ集団と勘違いされることも多いようですが・・・・?」
(室)
「そんなことはない。社員の来島恒喜が大隈重信(明治時代の首相、早稲田大学を創設)に爆弾テロを敢行したことや、『大アジア』思想を高らかに唱えていたことから誤解を生んでいるようだが、一方で、『人民の権利を固守』とも主張しており、戦後にも玄洋社出身者が閣僚や福岡市長等の要職に就いている・・・・。戦前の総理大臣・犬養毅や廣田弘毅も玄洋社との関係が深かった。」
(湛)
「そう聞くと、ごく普通の政党やNGOのようですね?」
(室)
「その通り。今では福岡市民でも玄洋社の名を知る人は少なくなってきているが、幾多の名士を育んだ母体としてもう少し認知・評価されて良いと思うぞ。」
(湛)
「激動の時代に生まれ、激動の時代に幕を閉じた頭山満ら玄洋社の面々は今ここで静かに眠っているわけですね・・・・。」
(室)
「今度は墓地の北側へ参ろう。」
(湛)
「叔父さん、この門は何でしょう?」
(室)
「藤水門・・・・。これは黒田長政殿以下、歴代黒田藩主の墓所じゃな。」
(湛)
「神聖な場所として門の中には入れないようになっていますね。」
(室)
「気持ちは分かるが、ここだけの話、黒田官兵衛殿は目立ちたがり屋の寂しがり屋・・・・。多くの市民が官兵衛殿を郷土の英雄として毎日訪ねた方が喜ぶと思うがな・・・・。」
(湛)
「そうですね(笑)。」
(室)
「さあて、アレはどこだ?アレ・・・・?」
(湛)
「叔父さんも意外と目立ちたがり屋なんですね?どうせ、『博多三商傑・島井宗室』が眠る瑞雲庵を探しているんでしょ?」
(室)
「(ギクッ)・・・・。コホン。宗湛よ、そこまで私の気持ちを察しているのならば、あちらの建物で聞いてきてくれ・・・・。」
(湛)
「ハイハイ。全く叔父さんは人使いが荒いんだから・・・・。ちょっとすいませ~ん!」
(室)
「どうであった?」
(湛)
「それが・・・・。」
(室)
「どうしたのだ?」
(湛)
「受付の方いわく、『わかる者が外出しております!』とのことでした・・・・。」
(室)
「ガーン!」
(湛)
「叔父さん、何だか顔色が悪いですよ!」
(室)
「不祥、島井宗室!これでも博多三商傑の一人として、天下の御用商人とも言われたのに・・・・。」
(湛)
「きっと叔父さんが年寄り臭い説教ばかりあちこちでするから煙たがられてるんですよ!子孫にもそんな家訓を残してたでしょ?」
(室)
「(キッとにらんで)それ以上言うな!」
(湛)
「と、とにかく崇福寺は良い歴史スポットです!貴重な建築物も多く、歴代黒田藩主をはじめ、博多に由来の深い方々がたくさん眠っています。でも、お願いですから私の叔父、島井宗室の墓『瑞雲庵』が分かる方を常駐させて下さ~い!」
(室)
「・・・・。」
(湛)
「さぁさぁ、叔父さん大丈夫ですか?しっかりして下さい。ボクもこの暑さの中で叔父さんを担いで帰るのは無理ですからね!フラフラしないでちゃんと歩きましょうね!シーユーネクストアゲイン!」
[続く]