古城をゆく・・・・震災を乗り越えて甦れ!熊本城 参の巻(~加藤清正~本丸御殿「昭君の間」の秘密~)

2017 年 1 月 21 日

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(黒田長政)

「父上、あけましておめでとうございます!」

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(黒田官兵衛)

「おめでとう。ちと遅いが・・・・(怒)」

(黒田長政)

「熊本城特集をやっているうちに新年になってしまいましたな。」

(黒田官兵衛)

「まったく、平成28年中に終わらせると断言しておった作者に責任を取らせたいくらいじゃよ。」

(黒田長政)

「まあ、作者も株式会社えん建物管理の一員で忙しい時期、しかも、めでたい年明けですし、ここは父上も収めて収めて・・・。」

(黒田官兵衛)

「では、気を取り直して・・・。」

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(黒田長政)

「今回は2007年に復元された本丸御殿です。」

(黒田官兵衛)

「本丸御殿復元は熊本城築城400周年記念事業であったのう?」

(黒田長政)

「それでは遅まきながら、熊本城を築いた加藤清正のプロフィールを・・・。」

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加藤清正

1562~1611年。豊臣秀吉と同じく、尾張中村(現在の愛知県名古屋市)の出身。1573年、織田信長の重臣として近江長浜城主となった秀吉に小姓として仕官する。本能寺の変後、明智光秀との山﨑の合戦、柴田勝家との賤ヶ岳の合戦に参加して奮戦し、「賤ヶ岳の七本槍」に数えられる。秀吉の九州平定戦に従い、佐々成政の切腹後に肥後国(熊本県)の北半国を領地として与えられ、熊本城を築城する。秀吉の命令で朝鮮半島へ出陣した際(1592~1598年の文禄・慶長の役)には、首都ソウルを攻略した他、虎退治をしたという伝説も残っている。後に南半国も領有し、初代熊本藩主となる。

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※本丸御殿正面

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※天守閣から見た本丸御殿

(黒田官兵衛)

「ここが清正をはじめ、歴代熊本藩主が過ごした本丸御殿じゃな・・・。」

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(黒田長政)

「なかなかに見事な建物で、清正めもやりますな・・・。ちなみに、この本丸御殿の地下は天守閣への通路にもなっており、強固な木材が地下道の天井として本丸御殿を支えています。」

(黒田官兵衛)

「御殿の内部も見てみたいのう。」

(黒田長政)

「では、玄関の方から・・・失礼しま~す。」

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(黒田官兵衛)

「大きな囲炉裏じゃ。ここが大御台所、つまりキッチンじゃな。」

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(黒田長政)

「火を使う場所なので、大御台所の天井は吹き抜けになっており、屋根の構造が良くわかります。」

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※本丸御殿控の間

(黒田官兵衛)

「この和室は随分広いが、これは大広間に続く控えの間か?」

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(黒田長政)

「建物の脇を通る廊下も、江戸城松の廊下を髣髴させる見事なものですね。中庭もあったのでしょう。因みに、福岡城の本丸御殿もこれくらい立派だったんですぞ!」

(黒田官兵衛)

「今は何も残っておらぬがのう・・・。」

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(黒田長政)

「グスン・・・(気を取り直して)こちらが大広間。まさに謁見などが行われる公式行事の舞台です。ふすま絵も見事に復元されております。」

(黒田官兵衛)

「いや~、清正が築いた熊本城にこれほど見事な御殿があったとは・・・。さすが築城の名手じゃ。加藤清正は現在でこそ『築城の名手』として知られておるが、ワシから見れば、長政と一緒に石田三成を襲撃した荒くれ者の一人ぐらいにしか記憶しておらぬがのう。」

(黒田長政)

「そんなこともございましたな(恥)。石田三成等、五奉行は戦場で命を掛けて戦う私や加藤清正・福島正則に上から目線で命令し、奴等がする仕事といったら田畑を検地したり、軍隊に補給をしたり、秀吉様の命令を書面に起こしたりと、戦に比べればどうでも良いことばかり。」

(黒田官兵衛)

「豊臣家にとってはどちらも大切なことじゃがのう。」

(黒田長政)

「しかし、秀吉様の命令で朝鮮半島に攻め込んだ時も、現地での我等の手柄を石田三成等に握り潰されたではございませんか?」

(黒田官兵衛)

「確かにのう。」

(黒田長政)

「しかも、1598年に朝鮮半島での戦いの最中に秀吉様が亡くなると、三成等の態度は益々大きくなる始末。」

(黒田官兵衛)

「そこで、長政と加藤清正・福島正則・加藤嘉明、それに池田輝政・浅野幸長・細川忠興の七将で石田三成を襲撃した訳じゃな?しかし、両加藤と福島は喧嘩早いので有名な『賤ヶ岳の七本槍』の内の三人。そして、池田・浅野・細川はやはり喧嘩早いので有名な名家の跡取り息子。周りは良い迷惑じゃったろうな。」

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※徳川家康

(黒田長政)

「今になって考えれば・・・・。しかも、三成には逃げられてしまい、我等七名は五大老筆頭の徳川家康様からはキツいお叱りを受けたのでございます。『お前達はチンピラか!』と。」

(黒田官兵衛)

「ふふ、チンピラとは家康殿も上手いことを仰る。」

(黒田長政)

「その後、1600年の関ヶ原の合戦では加藤清正は我が黒田家と行動を共にすることになります。」

(黒田官兵衛)

「あの時、長政には関ヶ原に出陣してもらったが、加藤清正は熊本城に残り、ワシと共に九州では少数派の東軍として行動した。ワシが中津城を発って国東半島の西軍の城を攻略し、西軍として上陸してきた大友吉統と石垣原で戦っている間に、肥後の南半分を支配する小西行長の宇土城を攻略し、更にワシと協力して立花宗茂の柳川城を攻略したのじゃ。」

(黒田長政)

「清正はこの功績により、小西行長の旧領である肥後南部を併合し、加藤清正は初代熊本藩主となったのですが、その後も徳川幕府に名古屋城築城などで表面的には協力しつつも、豊臣秀頼への個人的忠節を忘れず、京都二条城で徳川家康・豊臣秀頼両者が対面した際には浅野幸長と共に護衛役を務め、豊臣恩顧の大名であることを徳川幕府に見せつけました。」

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※大坂城

(黒田官兵衛)

「徳川家が豊臣家を滅ぼした大坂の陣の直前、浅野幸長・加藤清正が相次いで亡くなった。二人が生きておれば大坂の陣は回避できたかもしれぬし、福島正則や島津家久も豊臣方に味方して戦況は変わっていたかもしれん。じゃから、二人は徳川幕府に毒殺されたという説もあるほどじゃ。」

(黒田長政)

「確かに、その様な噂も聞いたことがございますな・・・。さあ、この大広間の奥に見事な障壁画が設えられた一室が『昭君の間(しょうくんのま)』でございます。」

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(黒田官兵衛)

「おお、これは見事じゃ!」

(黒田長政)

「この部屋には鶯張りの廊下や外へと通じる隠し通路があったといい、藩主の居間として使われていたようで、中国の故事に登場する王昭君の絵画があることから『昭君之間(しょうくんのま)』と呼ばれています。しかし、実は昭君(しょうくん)=将軍をもじったものという説があり、豊臣家が危機に陥った際には加藤清正が豊臣秀頼を匿う要塞=熊本城だったという説の根拠になっています。」

(黒田官兵衛)

「なるほど。確かに築城の名手らしい熊本城の秘密じゃ。豊臣の旗を掲げ、秀頼を援けて熊本城に籠城する清正の戦いぶり、見てみたかった気もするのう・・・。」

(黒田長政)

「結局、加藤清正の時代も、後に細川氏が熊本藩主になった時代も熊本城が実戦を経験することはありませんでした。しかし、築城から200年以上も経った明治時代、熊本城は最強の敵を迎えて大奮戦することになります・・・。」

[続く]

古城をゆく・・・・震災を乗り越えて甦れ!熊本城 弐の巻(小西行長と宇土櫓伝説)

2016 年 11 月 18 日

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(黒田官兵衛)

「前回から熊本城の特集じゃが・・・・」

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(黒田長政)

「今回は予告通り宇土櫓(うとやぐら)でございますぞ。熊本城本丸の西北側にある宇土櫓は国指定の重要文化財です。築城当時のものが残っている建物で、熊本地震以前は一般公開され、内部の見学ができました。三層五地下一階建て構造で、大天守や小天守と並ぶ規模のため、熊本城の「第三の天守」とも呼ばれます。明治のはじめ頃までは、他にも同規模の五階櫓がありましたが、現在は宇土櫓だけになりました。」

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※熊本地震以前の宇土櫓全景

(黒田官兵衛)

「長政よ、宇土櫓が宇土城から移された物という説は知っておるか?」

(黒田長政)

「はい。宇土城といえば、加藤清正と共に肥後半国を与えられた武将、小西行長が築いた城。」

(黒田官兵衛)

「そうじゃ。小西家は元来、備前国岡山の戦国大名・宇喜多氏に出入りする御用商人であった。当時、織田家の中国方面軍司令官だった太閤様(豊臣秀吉)が宇喜多氏を従えた際に、小西行長は豊臣家の家臣となったのじゃ。勿論、ワシの根回しによるものじゃ。フフフ。」

(黒田長政)

「久しぶりに父上の自慢話でございますな~。」

(黒田官兵衛)

「熊本の皆様へのお約束にリップサービスってやつじゃよ。」

(黒田長政)

「当時の商人は自ら武器を持ち、兵を雇って強力な武装集団を擁していました。また、商売柄、船の扱いに長けており、自身の水軍を率いていました。商人は中立性が高いことから、僧侶と共に外交官として活躍することもありました。」

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※小西行長銅像(宇土市)

(黒田官兵衛)

「そうじゃ。太閤様は小西行長の高い交渉能力と、商人ならではの物流構築能力を評価し、小西行長は紀州征伐や九州平定戦では補給参謀・水軍指揮官としても活躍した。小西行長はキリシタンであり、キリスト教が禁教(バテレン追放令)となった後も信仰を棄てなかったという。」

(黒田長政)

「前回の話と重複しますが、九州平定後に発生した肥後国一揆の結果、小西行長と加藤清正で南北に分割統治されることになり、小西行長は宇土城を築いたのでございましたな。」

(黒田官兵衛)

「しかし、賤ヶ岳の七本槍の一人でもある武断派の加藤清正に対し、商人出身で水軍衆や補給線、外交官等の裏方経験が長い行長は国境線等を巡って対立。更には朝鮮半島出兵における作戦に対する意見対立で決定的に険悪な中となった。」

(黒田長政)

「1600年の関ケ原の戦いでは、小西行長は石田三成率いる西軍の主要人物となりますが、合戦は僅か1日で西軍が敗北。」

(黒田官兵衛)

「あ~あ、あの時、長政が小早川秀秋を裏切らせてあっという間に勝敗がついたせいで、ワシが九州全域を制圧する作戦が夢幻になってしまったワイ。」

(黒田長政)

「・・・・(父上、それは言わない約束)・・・。コホン、関ケ原から伊吹山中に逃れた小西行長は東軍方(徳川家康側)に捕らえられて処刑されました。切腹をしなかったのはキリシタン大名だったからとされています。」

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※熊本地震以前の宇土櫓と回廊部分

(黒田官兵衛)

「宇土城はその後、加藤清正が攻略し、小西氏は滅亡した。残念ながら、今年4月の熊本地震により、宇土櫓にも被害があり、回廊部分は完全に倒壊したという。」

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※熊本地震以前の宇土櫓内部(回廊部分)

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※熊本地震以前の宇土櫓内部(櫓部分)

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※熊本地震以前の宇土櫓内部(狭間の銃眼)

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※宇土櫓の構造を示す模型

(黒田長政)

「しかしながら、宇土櫓本体はその古風な外観を保っているそうで、当時の築城技術に対して称賛する声が上がっております。」

(黒田官兵衛)

「確かにそれは凄いことじゃ。敗軍の将として斬られたが、宇土城を築いた小西行長も少しは溜飲が下がろうというもの。」

(黒田長政)

「父上、その宇土櫓=宇土城の天守閣という説でございますが、都市伝説の一つとして否定する説が有力でございますぞ。」

(黒田官兵衛)

「なに、それは誠か?」

(黒田長政)

「は、宇土櫓を解体調査した際、使用されている木材に再使用の痕跡が見つからなかったそうでして・・・・。」

(黒田官兵衛)

「なるほど。しかし、やはりこの宇土櫓は熊本城の天守閣にも匹敵する存在感。他の城の天守閣だったという説が広まったのも無理はなかろう。」

(黒田長政)

「宇土櫓という名前は、小西行長の元家臣らにこの櫓を管理させたことにより、名づけられたという説が有力です。」

(黒田官兵衛)

「いや~、今回は勉強になったのう。」

(黒田長政)

「それにしても、こんな大きな櫓が大天守・小天守・宇土櫓と三つもあるのはやはり凄いですな。」

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※宇土櫓から熊本城二の丸を望む

(黒田官兵衛)

「しかも、この高さ19メートルの宇土櫓からの眺めの素晴らしさ。」

(黒田長政)

「本当ですね。」

(黒田官兵衛)

「あ~あ、誰かさんが福岡城にも天守閣を造ってくれていたら・・・・。」

(黒田長政)

「父上、そんなに同じネタでイジメなくても・・・・。うわ~ん!!!」

(黒田官兵衛)

「(焦・・・)な、長政よ、じ、冗談じゃ。こらこら、泣くな泣くな。お前は仮にも福岡52万石であろうが・・・・。よしよし、いい子いい子。さ、次は本丸御殿じゃ・・・。」

[続く]

古城をゆく・・・・震災を乗り越えて甦れ!熊本城 壱の巻(熊本前史)

2016 年 11 月 7 日

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(黒田官兵衛)

「あっという間に11月じゃのう。朝は息が白いわい。」

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(黒田長政)

「・・・・。」

(黒田官兵衛)

「長政よ、どうしたのじゃ?ガラにもなく新聞なぞ読んで?」

(黒田長政)

「今年の4月に起こった熊本地震。あれから半年以上が経ちまするが、未だに避難生活を強いられている方もおられるとか。労しい限りです。」

(黒田官兵衛)

「ふむ、確かに。今回の地震は尊い人命が失われただけでなく、難を逃れた人々の生活にも大打撃を受けた。」

(黒田長政)

「そればかりではございません。熊本城や阿蘇神社、通潤橋といった熊本の魂というべき名所も地震で大きな被害を受けております。それを思うと・・・・。」

(黒田官兵衛)

「なるほど・・・・。しかし、長政よ。熊本城では既に復興資金を集める為の復興城主募集が始まっておるというし、我等父子にも出来ることがあるぞ!」

(黒田長政)

「それは何でございますか?」

(黒田官兵衛)

「熊本城の素晴らしさ、かつての勇姿を皆様にお伝えすることじゃ!」

(黒田長政)

「確かに。熊本城の素晴らしさ、我等の手でお伝えいたしましょう!」

(黒田官兵衛)

「では早速、城の中心・天守閣から、この熊本城の由来についてスタートじゃ。」

(黒田長政)

「承知いたしました!」

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【熊本城】

戦国時代の築城の名手・加藤清正が15年の歳月をかけて築いた熊本県最大の城郭にして、火の国熊本のシンボル。別名「銀杏城」。熊本藩主加藤家、続いて細川家の居城となった。江戸時代に実戦経験はないが、明治時代の西南戦争においては西郷隆盛率いる薩摩軍の猛攻を退け、清正の築城技術が改めて評価される結果となった。現在、城跡は特別史跡に指定されている他、宇土櫓等の当時の建造物が重要文化財に指定されている。

(黒田官兵衛)

「肥後国、つまり現在の熊本県は平安時代以来の豪族として有名な菊池氏がいたが、他にも阿蘇氏、人吉の相良氏、八代の名和氏、宇土の宇土氏等がおり、菊池氏を盟主としてそれぞれの地域を分割統治する体制が長く続いた。」

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※菊池城跡に建つ菊池武光騎馬像

(黒田長政)

「菊池氏の全盛期といえば、菊池武光の時代ですな。」

(黒田官兵衛)

「左様。南北朝時代、菊池武光は後醍醐天皇の皇子・懐良親王(かねながしんのう)を擁して九州の全域を制覇していた。しかし、その後は足利幕府の攻撃を受け、菊池氏内部にも分裂が起こって弱体化し、以後、肥後の支配者は大友宗麟、龍造寺隆信、島津義久と目まぐるしく変転した。」

(黒田長政)

「熊本城は、もともと隈本城と言い、菊池氏の家来である鹿子木氏が建てたのでございましたな。」

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※豊臣秀吉

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※佐々成政

(黒田官兵衛)

「その通り。やがて太閤様(豊臣秀吉)の九州征伐が始まると、隈本城には豊臣家の武将・佐々成政が入城した。」

(黒田長政)

「佐々成政はかつて太閤様と戦ったこともある武勇の将でございますな。」

※肥後国一揆の首謀者・隈部親永像(山鹿市)

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(黒田官兵衛)

「ところがじゃ。佐々成政は土地の所有者である国人(地方豪族)と耕作者である農民を分離する検地を強行しようとして隈部氏・阿蘇氏・甲斐氏・和仁氏らの国人衆の反感を買い、肥後国一揆が勃発してしまった。」

(黒田長政)

「あの時は父上も一揆鎮圧の加勢として熊本に向かわれたのでございましたな。お疲れ様でした。」

(黒田官兵衛)

「結局、一揆は鎮圧されたものの、佐々成政も統治の不手際を責められて切腹。肥後の南半分には太閤様の信任厚い小西行長に、北半分には長政とも仲が良い『賤ヶ岳の七本槍」加藤清正にそれぞれ与えられ、加藤清正は隈本城に入った。」

※加藤清正像

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※城内の加藤神社

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(黒田長政)

「いよいよ築城の名手とされる加藤清正の登場ですね。」

(黒田官兵衛)

「加藤清正は南東の白川を天然の濠に見立て、茶臼山にあった古い隈本城を取りこむ形で新しい城を築いた。」

(黒田長政)

「天守閣は大天守と小天守を繋いだ連結式望楼型と呼ばれる形式で、大天守は三重6階地下1階、小天守は三重4階地下1階構造にそれぞれなっております。」

※小天守から見た大天守

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※大天守から見た小天守

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(黒田官兵衛)

「おお、よく予習してきておるのう。」

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(黒田長政)

「こちらは厠(トイレ)だったようですな。そして、こちらは天守台に築かれた階段。」

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(黒田官兵衛)

「察するところ、こっちの階段が本来の天守閣への入り口だったようじゃのう。」

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(黒田長政)

「この天守閣は、明治時代の西南戦争で焼失し、昭和35年にコンクリート造で復元されたものです。」

※展示される鯱と江戸時代の天守閣の構造模型

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(黒田官兵衛)

「現在はこの様な博物館になっておるのじゃな。」

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(黒田長政)

「今回の震災では天守閣の瓦の大部分が剥落した模様ですが、もう一度この様な綺麗な姿になってもらいたいですね。」

(黒田官兵衛)

「全くじゃ。次回は江戸時代当時の建物が残っていた宇土櫓を紹介するとしよう。」

[続く]

古城をゆく・・・・海に向かって広がる舞鶴の翼・唐津城

2016 年 9 月 15 日

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(母里太兵衛)

「ふわぁーっ、退屈じゃー。もうすぐシルバーウィークとやらで世間の皆様は秋の休日を楽しむそうじゃが、共に旅に出るいい相手がおらんし。又兵衛の奴は博識の男だから、それがしと違って大殿(黒田官兵衛のこと)や島井宗室殿の話し相手として引っ張りだこだし、殿(黒田長政のこと)の相手をするとそれがしに勝つまでやりたがるし・・・・。」

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(後藤又兵衛)

「太兵衛殿、御在宅ですかな?」

(母里太兵衛)

「なーんだ、又兵衛ではないか?」

(後藤又兵衛)

「『なーんだ』とはごあいさつですな!せっかく旅行に誘いに来たのに。いくら休みだからといって昼間からゴロゴロしていては体がなまりますよ。」

(母里太兵衛)

「どこへ行こうというんだ?それがしは同じ武士でも、又兵衛や小早川様のように、難しい人物評などはついていけんぞ。」

(後藤又兵衛)

「いやいや。実は太兵衛殿がそのように思っておられようと思い、一緒に九州各地の城を巡る旅に出ようかと。」

(母里太兵衛)

「グスン。又兵衛ぇ、おぬしは実にいい後輩じゃ~!早速出かけるとしよう。」

(後藤又兵衛)

「いやあ、喜んでもらえて私も・・・・。って太兵衛殿!そんなに荷物を背負っては家から出られませんぞ。夜逃げじゃないんだから!」

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唐津城

江戸時代初めに初代唐津藩主・寺沢広高によって現在の唐津市に築城された城郭。福岡市の名島城跡と同様に、唐津湾に面した海城である。かつては隣接する早稲田佐賀中学・高校の敷地が当城の二の丸であり、三の丸は現在の唐津市役所付近まで伸びていた。現在では天守台跡に復元天守閣が建てられ、『唐津くんち』と並ぶ唐津市の観光シンボルとなっている。

(母里太兵衛)

「いやあ、ようやく唐津に着いたぞ~。ここがJR唐津駅か。又兵衛、ここから歩くか?」

(後藤又兵衛)

「太兵衛殿。槍なぞ持って唐津の街を闊歩されては周りが迷惑です。ここは市内バスに乗りましょう。このバスに乗れば10分位で唐津城への城内橋がかかる宝当桟橋です。」

(母里太兵衛)

「りょうか~い・・・・。お、これは唐津市役所かな?石垣があるということは、ここまで城の敷地だったということか?」

(後藤又兵衛)

「そうです。かつての唐津城の敷地の内、二の丸の一部は中学校・高校に、三の丸は市役所等の市街地に生まれ変わっていますが、市内には他にも城の遺構が多く残っています。ほら、あそこに見えるのは江戸時代中頃に置かれた『時の太鼓』つまり時計台を復元したものです。」

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(母里太兵衛)

「おいおい、そうこうしているうちに目的地の宝当桟橋に着いたぞ。」

(後藤又兵衛)

「因みにこの宝当桟橋は、宝くじ等にご利益があるとされる宝当神社に向かう船が出ています。ジャンボ宝くじの発売前なんかは賑わうんですよ。」

(母里太兵衛)

「しかし、今日は唐津城に向かって桟橋から城内へ向かうお客さんも多いようだわい。」

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(後藤又兵衛)

「実は、唐津城二の丸にある藤棚は、今の時期にとても美しく花を咲かせるんですよ。わざわざ遠方から藤棚を観る為に唐津へ来る人もいるくらいです。それに、唐津城は桜の名所としても知られており約500本もの桜が植えられています。」

(母里太兵衛)

「それにしても、この城内橋から見える唐津城天守閣は実に美しい。ガイドブックにあるとおり、城の周囲に広がる名勝『虹ノ松原』を鶴の翼に見立てて唐津城を『舞鶴城』と呼ぶのも分かるわい。」

(後藤又兵衛)

「まったくです。さて、太兵衛殿。一応、エレベーターもあるのですが、ここは運動不足の太兵衛殿の為に石段を登って藤棚を愛でましょう。」

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(母里太兵衛)

「たく、人を年寄り扱いしおって。でも、今度大殿をお連れする場合にはエレベーターが役に立つであろう。まだまだウォーキングではおぬしには負けんぞ・・・・。おお、これが唐津城の藤棚か!」

(後藤又兵衛)

「見事でしょう?この藤は唐津市の天然記念物に指定されています。」

(母里太兵衛)

「しかし、それがしにはやはり『花より団子』だわい・・・・。いかん、名産の大原松露饅頭を買い忘れた!」

(後藤又兵衛)

「ハハッ。後で駅近くの本店で殿へのお土産に一緒に買いに行きましょう。さあ、あと少しで本丸に入る櫓門ですぞ。」

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(母里太兵衛)

「それにしてもゴツい門構えじゃ。唐津藩・寺沢氏の飛び地の天草を含めて石高は12万石。我が黒田藩の4分の1の収入でこんなに立派な門扉や石垣がよく造れたもんだ。」

(後藤又兵衛)

「唐津城と城下の開発については、佐賀藩・熊本藩等の協力を受けた他、建築資材を呼子町の肥前名護屋城から運び込んだといわれています。今でも各藩の協力を得て開発した地域にはその名称、例えば肥後堀などの地名が残っています。」

(母里太兵衛)

「ふーっ。これが天守閣か?」

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(後藤又兵衛)

「そうです。福岡城同様に唐津城の天守閣はなかったといわれていますが、昭和41年に郷土資料館として安土桃山様式の五層の天守閣が建てられました。中には寺沢氏以前に唐津を治めた松浦党(松浦水軍)や隠れキリシタン史、唐津藩に関する資料などが展示されています。」

(母里太兵衛)

「やっと最上階か~!おお、ここからは虹ノ松原がよく見える。」

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(後藤又兵衛)

「国指定特別名勝・虹ノ松原は、初代唐津藩主・寺沢広高が新田を開発した際に約100万本もの黒松を植林して防風林として活用したのがはじまりです。」

(母里太兵衛)

「唐津はもともと松浦党(松浦水軍)の総帥・波多親の領地だったっけ?」

(後藤又兵衛)

「そうです。平安時代末期の源平の戦いや、鎌倉時代後期のモンゴル軍襲来で活躍した肥前国(佐賀県)北部の武士団が松浦党です。波多親はその松浦党内部でも最大勢力を誇る武将でしたが、太閤様の命令で朝鮮半島に出陣した際に多くの軍令違反を犯して領地没収となり、石田三成と並ぶ太閤様の側近官僚だった寺沢広高に唐津の地が与えられました。」

(母里太兵衛)

「寺沢広高について、それがしはよく知らんのだ。」

(後藤又兵衛)

「彼は、太兵衛殿や私のような武芸に秀でた者とは違いますが、一方で短期間に日本軍総勢30万の遠征拠点・肥前名護屋城を築くなど、築城者として有能でありました。」

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※日本二十六聖殉教者(大浦天主堂・長崎市)

(母里太兵衛)

「寺沢広高というと、長崎奉行としてキリシタン二十六聖人の処刑を行ったし、彼の死後に分国(飛び領地)である天草で島原・天草の乱が勃発しているから、どうも為政者として酷薄な人物のような気がするが・・・・。」

(後藤又兵衛)

「しかし、太兵衛殿。この唐津城や虹ノ松原を見て頂ければ、広高が与えられた唐津の地を大切にし、強い思い入れをもって統治を進めたことが分かりますよね?」

(母里太兵衛)

「寺沢広高にとっては、唐津は全く見知らぬ地だったはず。しかし、唐津の地を愛すればこそ現在のような街並みにする種を蒔いたのだな。きっと、我が殿が福岡の地を開いたように・・・・。」

(後藤又兵衛)

「そうですな。いつか殿や大殿も唐津の地にお連れしましょう。桜の季節か、十一月の唐津くんちの季節も良いですな。」

(母里太兵衛)

「そうだ、その時はそれがしが松露饅頭を菓子にして皆さんにお茶を一服・・・・。」

(後藤又兵衛)

「そ、それよりも太兵衛殿は曳山を引く方が似合うのでは?あの詩ですよ!『さ~け~は~の~め~の~め~』って黒田節を奏でつつ・・・・。」

(母里太兵衛)

「そ、そうかあ?」

[続く]

暑さを吹き飛ばそう!平安京を誕生させた夏の暑さ以上に熱い漢(おとこ)和気清麻呂を祀る和気神社(鹿児島県霧島市)

2016 年 8 月 1 日

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(黒田官兵衛)

「いや~、暑い暑い!暑いのう、長政よ。」

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(黒田長政)

「父上、そのように暑いばかり言っておられては家臣に示しがつきませんぞ。」

(黒田官兵衛)

「うるさい、ワシは暑いの苦手なんじゃ。暑いと、ワシの優れた頭脳まで破壊されそうじゃ。ホレ、太兵衛、もっと煽がんかい!」

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(母里太兵衛)

「大殿、ここは槍の素振りでもして温泉でも入られてはどうでござる?酒も美味いと思いまするぞ。」

(後藤又兵衛)

「では、福岡の地を離れて湯煙の湧く温泉地・霧島へ参りましょう。道中は和気神社に寄るというのはどうでしょう?」

(黒田長政・母里太兵衛)

「和気神社!?」

(黒田官兵衛)

「早速出発じゃ!」

**

(黒田長政)

「というわけで、霧島に着いたが、和気神社というのは?」

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※和気清麻呂

(後藤又兵衛)

「奈良時代末から平安時代初期にかけての宮中に、一人の肝の据わった貴族がいました。男の名前は和気清麻呂。彼は奈良時代~平安時代の貴族で、当初は姉と共に孝謙女帝(称徳天皇)に仕えていました。」

(黒田官兵衛)

「当時、宮中では怪僧・道鏡が女帝の寵愛を得て暗躍し、太政大臣禅師、更には法王として弟たちと朝政を牛耳らんとしておった。」

(黒田長政)

「なるほど・・・。」

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※宇佐八幡宮

(後藤又兵衛)

「769年、道鏡は宇佐八幡の宮司を懐柔して『道鏡が天皇となれば国は安んじられる』との神託を報告させます。」

(母里太兵衛)

「事実であれば、皇室の出自でないものが天皇になることになるではござらんか?」

(黒田官兵衛)

「その通りじゃ。そこで、事実確認の為に宇佐八幡宮へ勅使として派遣されたのが和気清麻呂でじゃった。」

(後藤又兵衛)

「神託を偽らせていた道鏡は、清麻呂をある時は脅迫し、ある時は官位で誘おうとしましたが、国と皇室への忠誠熱い清麻呂はこれに屈せず、宮中において『我国では臣下が天皇になったことはない。無道の者は早く追い払うべし』との神託を堂々と報告しました。面子をつぶされた道鏡は、清麻呂が『神託を偽った』と女帝に讒言して霧島に流罪としたのでした。」

(母里太兵衛)

「忠臣の鑑でござる・・・。」

(黒田官兵衛)

「孝謙女帝の崩御に伴い、道鏡が失脚すると、清麻呂は名誉を回復され、宮中に呼び戻された。」

(黒田長政)

「良かった~!」

(後藤又兵衛)

「そして、清麻呂が再び歴史を動かします。784年、桓武天皇は道鏡のような寺社勢力が強い平城京から人心を一新する為、新都・長岡京の造営を始めました。」

(黒田長政)

「確かに政教分離は良い考えですな、父上?」

(黒田官兵衛)

「しかし、責任者の藤原種継が暗殺され、桓武天皇の弟・早良親王が容疑者の一人として獄死。洪水や飢饉が相次ぐなど世情不安の中、造営は一向に進みませんでした。」

(母里太兵衛)

「それは実に困ったものでござる。」

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※平安京大極殿を模したとされる平安神宮

(後藤又兵衛)

「その時、既に還暦を迎えていた(当時としては高齢)のベテラン政治家、和気清麻呂が桓武天皇に進言したのが所謂「平安遷都」でした。清麻呂は自ら造営大夫を引き受けて1年余りで平安京遷都を可能にし、ここに長い長い平安時代の幕が開きます。和気清麻呂は『一千年の都・京都』の基礎造りに尽くした、夏の暑さ以上に熱い漢であり、気骨の貴族官僚でした。」

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※和気神社全景※

(母里太兵衛)

「ということは、この和気神社は清麻呂が流罪となった場所に因んで?」

(黒田官兵衛)

「奈良・平安時代の有能な官僚として知られる和気清麻呂は、出身地の岡山県等で崇敬の対象となっており各地に和気神社が建てられているのじゃが、その中でも出身地の和気神社と並んで別格なのがこの霧島の和気神社なのじゃ。」

(黒田長政)

「左様でございましたか。」

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※島津斉彬銅像(鹿児島市照国神社)

(後藤又兵衛)

「清廉な官僚・政治家であった和気清麻呂を崇敬した後世の薩摩藩主・島津斉彬は和気清麻呂が実際に流罪になっていた場所を調査し、自ら松の木を植えて手向けとし、戦後間もなく、その場所に建ったのがこの霧島の和気神社です。」

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(母里太兵衛)

「おや、狛犬ではなくイノシシが!?」

(黒田官兵衛)

「太兵衛、良いところに気付いたのう。実は、道鏡を天皇にするという宇佐八幡からの信託の真偽を確かめて戻る都への危険な道中(道鏡による口封じも想定された)、突如として数百頭の

イノシシが現れて和気清麻呂の輿を護衛したいう故事に因み、霧島・岡山を含めた全国の和気神社では狛犬ではなくイノシシが神社の両脇に鎮座しているのじゃよ。」

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※日本一の大絵馬に描かれた猪

(黒田長政)

「なるほど、それではこの日本一の大絵馬はイノシシが清麻呂を襲っているのではなく、護る為に同行しているシーンなんですね。勉強になりました。」

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※龍馬新婚旅行のパネル

(後藤又兵衛)

「余談ですが、霧島は幕末に坂本龍馬が日本初といわれる新婚旅行を敢行した関係で、それに因んだパネルや石碑も多いんです。」

(黒田官兵衛)

「それでは、龍馬とお龍も入浴したという栄之尾温泉(現・霧島いわさきホテル緑渓湯苑)にでも入るかのう?」

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※霧島いわさきホテル

(一同)

「賛成!!!」

[続く]

6月15日は弘法大師空海の誕生日!?黒田家の菩提寺である東長寺と博多の大仏!

2016 年 6 月 15 日

(神屋宗湛)

「本日は6月15日。真言宗の開祖で弘法大師と称される空海の誕生日だそうですよ。」

(島井宗室)

「おお、そうじゃ、そうじゃ。」

(神屋宗湛)

「では、今回は空海が中国の唐より戻り、最初に開いたとされる寺院で、九州真言密教の中心でもある東長寺に行きましょう。」

(島井宗室)

「ほほう?それは良い考えだ。」

(神屋宗湛)

「皆様に分かり易いようにご案内すると、エンクレスト御供所から大博通り沿いに博多駅方向へ向かうと、山門や鐘楼が見えてくるのが東長寺です。」

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※東長寺の山門

(島井宗室)

「通り沿いからもかなり目立つ伽藍じゃのう。」

(神屋宗湛)

「早速、お邪魔しま~す。あれ?叔父さん一大事ですよ!」

(島井宗室)

「どうした?」

(神屋宗湛)

「福岡大仏!全高16メートルだって!ご存知でした?」

(島井宗室)

「ナヌ?それは初耳だ。全高16メートルであれば、奈良の大仏の全高約15メートルを凌ぐ高さではないか!早速拝ませて頂こう。2階が入口らしいな。」

(神屋宗湛)

「撮影禁止らしいから、デジカメはしまっとこ。」

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※福岡大仏

(島井宗室)

「おお、何と荘厳な仏様じゃ!まるで今にも動きそうじゃ。」

(神屋宗湛)

「奈良の大仏様は土の御体に表面を銅(本来はその上に金箔)で作られていますが、こちらの福岡大仏はほとんど木製のようですね。」

(島井宗室)

「なになに・・・・。地獄体験じゃと?」

(神屋宗湛)

「仏様の台座の袖から入るようですよ。中では御説法のテープが流れているみたいですね。行きましょう!」

(島井宗室)

「こらこら、暗いから押すな!」

(神屋宗湛)

「そ、そんなこと言ったって!」

(島井宗室)

「(数分後・・・・)あいた~っ!」

(神屋宗湛)

「ごめんなさい!」

(島井宗室)

「こともあろうに、叔父である私を突き飛ばすとは・・・・。お前とは二度と暗闇には入らぬわ!」

(神屋宗湛)

「反省しております・・・・。」

(島井宗室)

「この東長寺は、そもそも空海(弘法大師)が中国大陸にて密教を学んで帰国した際に開いた由緒ある寺院で、現在でも九州における真言宗の拠点となっているそうな。」

(神屋宗湛)

「そうですね。その後、戦乱等で荒廃し、2代福岡藩主黒田忠之公(初代福岡藩主・黒田長政の長男)の時代に黒田家の支援を得て復興されました。」

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※境内の黒田忠之墓所

(島井宗室)

「それで黒田忠之公の墓が境内にあるのか・・・・。」

(神屋宗湛)

「はい。父祖の黒田如水様・黒田長政様等は県庁近くの崇福寺にあるのですが・・・・。忠之公は東長寺に余程強い思い入れがあったのでしょう。」

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※東長寺の本堂

(島井宗室)

「そして、これが本堂というわけか・・・・。勿論創建当時の建物ではないが、いかにも創建当時を偲ばせる大陸の影響を強く受けた雰囲気を醸し出しているな。」

(神屋宗湛)

「というと?」

(島井宗室)

「例えば、京都の平安神宮は平安京大極殿(重要儀式などが行われた宮殿の建物)を模しているのだが、私自身はあの大極殿によく似た荘厳なデザインだと思うのだが?」

(神屋宗湛)

「確かに云われてみれば、平安時代初期の薫りがしますね。」

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※六角堂

(島井宗室)

「さて、本堂はこれくらいにして・・・・。六角堂かな?」

(神屋宗湛)

「こちらは江戸時代に建てられたものですが、聖福寺の住職として有名な仙厓和尚等、当時の著名人の書画が収納されています。」

(島井宗室)

「一度に沢山参拝出来るように六角形というのが面白い。」

(神屋宗湛)

「中におわします仏様は6体ですから、ご利益は6倍ですね。」

(島井宗室)

「ハハ、その通りじゃ。しかし、東長寺は厳かだが実に面白いところじゃ。また参拝に来たいものだ。」

(神屋宗湛)

「そうですね。また一緒に地獄めぐりをやりましょう!」

(島井宗室)

「お前とは絶対イヤだ!」

(神屋宗湛)

「・・・・。」

[続く]

うどん・蕎麦、まんじゅう、そして山笠発祥の地である承天寺(正一国師・少弐氏・謝国明)

2016 年 5 月 29 日

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(神屋宗湛)

「さあて、大博通り周辺で聖福寺・東長寺と共に欠くことが出来ない寺院といえば、あとは承天寺ですね?」

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(島井宗室)

「うむ。承天寺を開山した聖一国師は臨済宗の高僧で、栄西禅師と同様に中国大陸(宋)に渡って禅を学び、帰国後に博多に承天寺を開いたのだ。」

(神屋宗湛)

「承天寺の建立には、有力武将や貿易商からの寄付があったとか?」

(島井宗室)

「左様。例えば、寺院建設に必要な資材を提供したのは博多在住の豪商・謝国明だという。」

(神屋宗湛)

「謝国明といえば、以前大河ドラマの『北条時宗』に出ていたあの妖しい貿易商ですね?」

(島井宗室)

「これこれ。それは余りにも失礼であろう。謝国明殿は博多の発展にも寄与した我等博多商人の偉大な先人じゃぞ。」

(神屋宗湛)

「だって、一族郎党が全員大陸風の衣装に身を包んでいて、雑技団みたいな武術を使うし、おまけに親友が松浦党の海賊ですよ。妖しくない訳ないじゃないですか!」

(島井宗室)

「・・・・。まあ良い。それから、承天寺の敷地を提供したのは大宰府の武官であり、鎌倉幕府の有力御家人でもあった武藤資頼公。」

(神屋宗湛)

「武藤資頼公は鎌倉時代後期のモンゴル軍来襲の折に、九州の武士団の指揮をとった少弐資能公の父ですね?」

(島井宗室)

「その通り。資能公の代になって官職である『太宰少弐』から『少弐』氏を名乗るようになったが、当時の武藤(少弐)氏の勢力は強く、豊前国・筑前国・肥前国・壱岐国・対馬国を守護として支配していたのだ。」

(神屋宗湛)

「事実上の博多の庇護者だった訳ですね。」

(島井宗室)

「左様。このことだけ見ても、承天寺の格の高さが分かるというもの。」

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(神屋宗湛)

「さて、着きましたよ。」

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※承天寺の勅使門

(島井宗室)

「この門には菊の御紋がある。かつては官寺であっただけあって、勅使(天皇の使者)を通す為の勅使門がある。聖福寺の時のように勅使門に近付くでないぞ。宗湛、分かったか?」

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※饂飩蕎麦発祥の地

(神屋宗湛)

「は~い。おや、『饂飩蕎麦発祥の地(うどんそばはっしょうのち)』とは何でしょう?」

(島井宗室)

「承天寺の開祖である聖一国師は、大陸に渡って禅の教えを学んだ一方で、うどん・蕎麦・まんじゅう等の製法を身に付けて帰国したのだ。」

(神屋宗湛)

「なるほど。それで、うどんと蕎麦の製法を持ち帰ったこの博多の町に『饂飩蕎麦発祥の地』という石碑があるのですね。」

(島井宗室)

「うむ、没後に花園天皇より贈られた『聖一』の国師号もそういった仏教以外の功績を含めたものかも知れぬな。」

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※鐘楼と金堂

(神屋宗湛)

「敷地内を見回すと、鐘楼や金堂をはじめ、いかにも禅寺らしい崇高で落ち着いた雰囲気の建物が並んでいますね。」

(島井宗室)

「最盛期と比較すればその後の戦乱で著しく規模が縮小し、戦後の区画整理で敷地内に道路が通ってしまっているが、それでも往時の雰囲気を充分に残しているな。」

(神屋宗湛)

「叔父さん、この石の塊は何ですか?」

(島井宗室)

「これは、鎌倉時代に博多に来襲したモンゴル軍(元寇)が使用していた軍艦の石製の錨だな。」

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※境内に残るモンゴル軍艦の碇

(神屋宗湛)

「これが、かつてユーラシア大陸全土に猛威を振るったモンゴル軍の軍艦の一部なのですね。あの時は叔父さんも大変だったでしょう?」

(島井宗室)

「うんうん、あの時は現金と小さくて高価な物を身に付けて家族や使用人と博多から肥後の菊池へ避難を・・・・。って、私が生まれたのは元寇の200年以上後だっ!」

(神屋宗湛)

「へへ、冗談ですよ。」

(島井宗室)

「全く、叔父を年寄り扱いしおって!」

(神屋宗湛)

「話は変わりますが、博多山笠の源流も承天寺と聖一国師だとか?」

(島井宗室)

「左様。1241年に博多の町で疫病が流行した際に、聖一国師が病魔退散の為に輿に乗って街を清めて巡ったのが由来だと言われている。」

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※承天寺本堂と庭園

(神屋宗湛)

「それにしても、本当に承天寺は興味深い寺院ですね。鎌倉時代の大大名である少弐氏や豪商・謝国明殿の援助で建てられ、勅使門を有するような格式の高い寺院でありながら、人々の生活に根付いたうどんに蕎麦、饅頭、おまけに博多山笠の発祥に地でもあるなんて。政治と風俗という一見相反するものの歴史を一度に垣間見られますね。」

(島井宗室)

「ところで宗湛よ。せっかく、うどん・蕎麦発祥の地に来たのだから、そこの春月庵さんで美味いうどんでも食べて帰るか?」

(神屋宗湛)

「いやだなあ、叔父さん。先程お昼を食べたばかりなのに・・・・。あまり間食ばかりしていると、メタボになっちゃいますよ!ボクは叔父さんの健康を本当に心配しているんですから。」

(島井宗室)

「(ムカッ)そうかそうか。それ程私の健康が心配ならば、大博通りの北端から南端までランニングで一緒に往復10周するか?」

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※博多の街の未来千年の繁栄を願って2016年承天寺通りに建てられた博多千年門(せんねんのもん)。

(神屋宗湛)

「・・・・。さあて、ボクはきつねうどんを注文しま~す!」

(島井宗室)

「調子のいいヤツだ!」

[続く]

※博多千年門の画像は公益財団法人福岡観光コンベンションビューローHPより転載

九州新幹線全通5周年・山陽新幹線博多開業41周年!九州に鉄道の幕開く!第3回ひかりは西へ!つばめは九州を駆け巡る

2016 年 3 月 12 日

(神屋宗湛)

「昭和20年(1945年)、戦争が終結すると、戦時中に大きな被害を受けた鉄道も復興、国鉄は旅客列車を戦前の水準まで増発し、平和な時代の到来を鉄道も謳歌しました。」

(島井宗室)

「その通り。一方で国鉄は、それまでの列車の中核を占めていた蒸気機関車を無くしていく『無煙化』を鉄道近代化のスローガンに掲げ、昭和23年(1948年)を最後に蒸気機関車の製造を終了した。」

(神屋宗湛)

「力強い蒸気機関車は頼もしい存在ですが、欠点もあったんでしょうか?」

(島井宗室)

「まずは、蒸気機関車の象徴というべき煙と煤じゃ。蒸気機関車の時代にはトンネルに入ると窓を閉めたという話をよく聞く。また、蒸気機関車の力強い外観と裏腹に、実は電車や電気機関車の方が坂道に強く、電車や電気機関車は一人の運転士で何両も一度に運用でき、電気で冷暖房や様々な設備を動かすことが出来た。確かに電化(電車や電気機関車を走らせること)の為には様々な変電設備などが必要になって費用がかかるが、蒸気機関車の場合には代わりに給水・給炭設備や方向転換設備も必要になる。・・・・とはいえ、九州の国鉄路線では昭和36年(1961年)に門司港~久留米間が電化されるまで蒸気機関車の独壇場だったのじゃ。」

(神屋宗湛)

「叔父さん、九州で活躍した主な蒸気機関車を教えてください。」

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※9600形蒸気機関車:通称キュウロク。大正2年(1913年)から770両が作られた国鉄初の国産標準貨物用機関車。日本全国で活躍し、九州では沿線に炭鉱のあった筑豊本線や長崎本線の他、各地の支線でも活躍。扱いやすい性能と大きさ、仲間の多さから終始愛用され、昭和50年(1975年)の蒸気機関車全廃まで走り続けた。写真は福岡市東区の貝塚公園に保存される49627機。

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※8620形蒸気機関車:通称ハチロク。大正3年(1914年)から684両が作られた国鉄初の国産標準旅客用機関車。日本全国で活躍し、九州では久大線等で活躍。9600同様に使いやすい性能と大きさが愛用され、昭和50年(1975年)まで現役だった。写真は現在でもJR九州のSL人吉号として活躍する58654号機。

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※D50形蒸気機関車:通称デゴマル。9600形以上の強力貨物用機関車として大正12年(1923年)から380両が作られ、重量貨物列車の牽引に従事。九州北部の直方機関区に重点配備され、輸送力向上に大きく貢献した。弟分のD51形登場後も活躍したが、戦後は一部の仲間がD60形に改造され、筑豊本線以外に久大線でも運用された。写真は飯塚市勝盛公園に保存されるD6046号機だが、元はD50157号機。

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※C11形蒸気機関車:昭和7年(1932年)から381両が作られた小型の機関車で、石炭と水を積んだ炭水車を牽かず、背中と両サイドのタンクに積むことからタンク式機関車とも分類される。車両本体のタンクに積んだ石炭と水のみで走る為、長距離運転には向かないが、その分短距離の線区で重宝された。写真は福岡県須恵町の皿山歴史資料館に保存されるC11257号機。

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※D51形蒸気機関車:通称デゴイチ。昭和11年(1936年)から我国の機関車としては(電気機関車やディーゼル機関車も含めて)最多の1115両が作られた大型の貨物用機関車で、我が国の蒸気機関車の代名詞的存在。九州では鹿児島本線・日豊本線・長崎本線といった幹線の他、強力な出力を生かして急勾配が続く肥薩線(人吉~吉松間)でも活躍した。写真は久留米市鳥類センターに展示されるD51923号機。

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※C57形蒸気機関車:通称シゴナナ。細身のエンジンボイラーから貴婦人とも称される。昭和12年(1937年)から215両が作られた高速の旅客用機関車で、デゴイチと並ぶ我が国の蒸気機関車の代名詞的存在。九州では鹿児島本線・日豊本線・長崎本線といった幹線で活躍した。1号機であるC571は、現在でも「やまぐち号」としてJR西日本の山口線で活躍している。写真は宮崎県総合運動公園に展示されるC57175号機。

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※C59形蒸気機関車:戦前最後に開発された超大型旅客用機関車。東海道・山陽本線において特特急列車などを牽く為に合計173両が戦前・戦後にかけて作られた。東海道から山陽へと電化が進むと、それに伴って西へ移動し、九州では昭和31年(1956年)より活躍。「あさかぜ」「さくら」「みずほ」といったブルートレインの先頭に立ち、無煙化によって姿を消していく蒸気機関車最後の黄金時代を飾った。写真は九州鉄道記念館に保存されるC591号機。

(神屋宗湛)

「叔父さん、詳しいですね~!」

(島井宗室)

「実はこのページの管理人が蒸気機関車大好きなんじゃよ。」

(神屋宗湛)

「道理で(笑)。」

(島井宗室)

「話は脱線したが、昭和36年(1961年)には門司港~久留米間が電車化され、以後、鹿児島本線が南に向かって電化され始めた。」

(神屋宗湛)

「いよいよ九州でも蒸気機関車に代わって電車や気動車の時代がやって来たんですね。」

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※九州を代表する電車特急として走り始めた「にちりん」

(島井宗室)

「うむ。まず、鹿児島本線が昭和45年(1970年)までに完全に電化され、近代的な電気機関車・電車が走るようになった。日豊本線も昭和49年(1974年)までに小倉~南宮崎間までが電化された。残りの区間や他の長崎本線・豊肥本線・筑豊本線・久大線等は電車ではなく、ディーゼル機関車やディーゼル気動車が走るようになり(日豊本線と長崎本線は後に全線電化)、昭和47年(1972年)~昭和49年(1974年)の間に九州地区の蒸気機関車は大部分が引退し、列車の近代化が達成された。」

(神屋宗湛)

「それはちょっと寂しいですね・・・。」

(島井宗室)

「しかし、寂しいことばかりではないぞ。昭和39年(1964年)に東京~新大阪間で開業した東海道新幹線が、『ひかりは西へ!』を合言葉に昭和47年(1972年)新大阪~岡山間が開業、そして、昭和50年(1975年)3月10日には遂に博多まで全通したのじゃ!新幹線『ひかり』号が東京~博多間を6時間56分で結ぶのは当時驚異的なことじゃった。」

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※遂に博多に乗り入れた新幹線「ひかり」号(四国鉄道文化館に展示される初代新幹線0系)

(神屋宗湛)

「昭和5年(1930年)の特急『燕』が東京~大阪間で8時間以上かかったそうですから、50年足らずの間に、それより短い時間で東京から博多まで行けるようになったとは、技術の進歩の凄さを感じますね。」

(島井宗室)

「一方で、昭和39年(1964年)に東海道新幹線が開業して以来、その莫大な建設費負担もあって国鉄はずっと赤字計上が続いていた。遂に昭和62年(1987年)4月1日、国鉄は分割民営化され、現在のJRグループが発足した。九州ではJR九州が誕生し、前後して宮原線・佐賀線・矢部線・大隅線等が廃止され、甘木線→甘木鉄道、松浦線→松浦鉄道、田川線→平成筑豊鉄道、湯前線→くま川鉄道、高千穂線→高千穂鉄道、高森線→南阿蘇鉄道にそれぞれ転換した。」

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※廃止になった佐賀線の筑後川橋梁と宮原線・小国駅跡

(神屋宗湛)

「いわゆる第3セクターってやつですね?」

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※上から平成筑豊鉄道・甘木鉄道・くま川鉄道・南阿蘇鉄道

(島井宗室)

「詳しいのう。鹿児島本線、日豊本線、長崎本線、豊肥本線といった主な本線ルートはJRが運行し、地域に密着した第3セクター鉄道が接続することで九州の鉄道は新しいステージに進んだのじゃ。」

(神屋宗湛)

「平成筑豊鉄道や甘木鉄道の様に地域の足として親しまれている鉄道もあれば、くま川鉄道や南阿蘇鉄道の様に観光鉄道として人気の鉄道もあってバラエティーに富んでいますね。」

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※2011年3月12日に全線開業した九州新幹線

(島井宗室)

「そうじゃ。そして、2004年(平成16年)には新八代~鹿児島中央(旧西鹿児島駅)間で待望の九州新幹線が部分開業。更に、平成23年(2011年)3月12日、九州新幹線は博多まで開通して全線開業したのじゃ。各駅停車の九州新幹線は歴史ある『つばめ』号を名乗り、停車駅の少ない九州新幹線は『さくら』号、新大阪まで走る長距離新幹線は『みずほ』号と命名された。博多~鹿児島中央の約260キロを最速1時間17分で走る九州新幹線、これからも九州の人と人、地域と地域を結びつける『絆』として活躍してほしいものじゃ。」

[完]

九州新幹線全通5周年・山陽新幹線博多開業41周年!九州に鉄道の幕開く!第2回九州鉄道から国鉄の時代へ!そして、世界初の海底トンネル誕生

2016 年 3 月 11 日

(神屋宗湛)

「九州鉄道とは別に、筑豊の石炭を運ぶ為の鉄道も開業したんですよね?」

(島井宗室)

「その通り。少し時間を巻き戻して明治24年(1891年)8月、それまで遠賀川の川船によって運ばれていた石炭を運ぶ為の筑豊興業鉄道が若松~直方間で開通し、翌年には小竹を経て飯塚、更に直方~金田間も開通し、明治30年(1897年)10月には九州鉄道と合併したのじゃ。」

(神屋宗湛)

「初期の九州の鉄道は他にも色々な会社が路線を敷いていたと聞きますけど?」

(島井宗室)

「ふむ。明治30年から35年にかけて九州鉄道は、行橋~伊田~後藤寺~糸田等を結んでいた豊州鉄道や、唐津炭田の石炭を輸送していた唐津鉄道、有田~伊万里間を結んでいた伊万里鉄道を次々に吸収合併。総営業キロ数は600キロを超えたという。」

(神屋宗湛)

「因みに、現在のJR九州の総営業キロ数(在来線のみ)が約1900キロですから、実に3分の1を有していたわけですね。」

(島井宗室)

「ここで面白いのが、我が国最初の鉄道開業である新橋~横浜間の際にはイギリス人技師によるイギリス製の機関車が走り、北海道に初めて鉄道が開業した際には広大なアメリカ大陸に共通点を見出してアメリカ製機関車が走った。九州鉄道の場合はドイツ人技師を招いた為、ドイツ製の機関車を走らせていたという点じゃ。」

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宇佐八幡宮境内に展示されるドイツ・クラウス社製蒸気機関車(九州鉄道26号)

(神屋宗湛)

「同じ日本国内だし、同じ機関車をたくさん揃えた方がメンテも楽そうなのに面白いですね。きっと1両ずつの単価が非常に高額だったでしょうから、都度取引時の条件が有利な相手から買っていたのでしょうね。ところで、南の鹿児島や熊本の鉄道はどうだったんですか?」

(島井宗室)

「九州鉄道が民間資本であるのに対し、明治27年(1894年)の国会で政府による鹿児島~八代間の鉄道建設が決まり、明治34年(1891年)に鹿児島~国分間が、明治36年までに国分~吉松間が開通したのじゃ。しかし、ここからが問題じゃ。吉松~人吉間には矢岳をはじめとする山々が立ちはだかり、トンネル・スイッチバック・ループ橋といった手段を講じてようやく明治42年(1909年)に現在の肥薩線経由で鹿児島本線・門司~鹿児島間が全通したのじゃ。」

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旧鹿児島本線最大の難所だった肥薩線の矢岳駅

(神屋宗湛)

「矢岳を抜ける矢岳第一トンネルは全長2キロを超え、着工から開通に2年を要したそうですから、これだけでも大変な工事だったようですね。」

(島井宗室)

「この間、九州の鉄道図を大きく塗り替える出来事が起こった。」

(神屋宗湛)

「え~っ!?」

(島井宗室)

「まだ何も言うとらん(怒)。明治39年(1906年)3月に鉄道国有法が公布され、九州鉄道は山陽鉄道などと共に国に買収されたのじゃ。」

(神屋宗湛)

「そりゃまたどうして?」

(島井宗室)

「元来、明治政府の中には最新技術の集積である製鉄や鉱山、造船、鉄道等を国家の手で生み出し、管理したいという強い主張があった。例えば造船技術は島国である我が国にとってはそのまま国防に直結する。製鉄についても、造船や鉄道、兵器産業とも密接に関連があり、それらの分野を政府の手で管理し、成長させていくということは近代化を進めていく我が国にとっては不可欠という考え方じゃ。」

(神屋宗湛)

「そういえば、世界遺産になった八幡製鉄所や三池炭鉱も元は官営(国営)でスタートしていますね。」

(島井宗室)

「そればかりではない。民間鉄道(私鉄)の場合には例えば大都市間の需要が多い場所には鉄道が発達するが、一方で過剰な競争が発生し、利用者も分散されてしまう。また、一方で利用者の少ない地域になると採算が取れない地域には鉄道が出来ないかもしれない。飛行機や自動車もない時代、鉄道が唯一の公共交通機関だった時代には、出来るだけ広い範囲に公平に鉄道を走らせ、しかも距離にあわせて出来るだけ均等・公平に料金が発生するのが利用者としても望ましいという部分もあった。」

(神屋宗湛)

「今でもバス会社が地域から撤退すると、その地域にとって大きな問題になっていますよね。国営ならその心配もないという訳ですか。」

(島井宗室)

「また、その前年に終結した日露戦争において、鉄道は国内の軍隊輸送だけでなく、中国大陸での進撃や補給の為に野戦鉄道が展開して大きな役割を果たした。日露戦争といえば、大国ロシアを相手にした国の存亡をかけた戦い。そんな戦いで活躍した鉄道を国防の面からも管理したいという思惑もあって鉄道の国有化が国会で決定されたのじゃ。」

(神屋宗湛)

「なるほど。ここに懐かしい響きの『国鉄』(日本国有鉄道・JNRとも)が成立したんですね。」

(島井宗室)

「前回、宗湛が『懐かしいアレ』と言っておったのは国鉄のことか?」

(神屋宗湛)

「そうですよ~。国鉄って聞かなくなって来年で30年ですからね。叔父さんも懐かしいでしょう?」

(島井宗室)

「い、いやその、私は生まれた時からJRだったものだから・・・。」

(神屋宗湛)

「ハイハイ・・・・全然面白くないですよ!」

(島井宗室)

「・・・(イラッ)・・・国有化については反対意見も多かったが、国鉄によって九州の鉄道建設は一気に進んだ。九州鉄道を引き継いだ国鉄は、現在の日豊本線を明治44年(1911年)1月までに大分まで開業させ、宮崎方面へは肥薩線の吉松から小林・都城経由で宮崎を目指すことになり、大正元年(1912年)には吉松~小林間、更に大正5年(1917年)10月25日には吉松~宮崎間が開通して九州島内の県庁所在地が全て繋がった。」

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かつては鹿児島本線と日豊本線の両方が通る交通の要衝だった吉松駅

(神屋宗湛)

「同じ日に大分から南下してきたの日豊本線も佐伯まで開通したんですよね?」

(島井宗室)

「左様。大正12年(1924年)12月15日に宮崎~佐伯間の残工事も竣工して、現在の日豊本線が全通。明治22年(1889年)の博多~久留米間の開業以来、35年かかって九州循環ルートがついに全通したのじゃ!」

(神屋宗湛)

「ばんざ~い!」

(島井宗室)

「しかし、まだまだ工事は続く。先に完成した鹿児島本線は熊本県の人吉から鹿児島県の吉松に抜けていたが、急勾配の山岳路線である為に輸送量は制限された。この為、海沿いに八代~水俣~川内と抜ける新しい鹿児島本線(現・肥薩おれんじ鉄道)が昭和2年(1927年)10月17日に完成し、人吉経由の旧鹿児島本線は肥薩線と改称された。」

(神屋宗湛)

「なるほど・・・。」

(島井宗室)

「更に、九州を東西に横断する現在の豊肥本線が昭和3年(1928年)12月2日に開通した。」

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豊肥本線の車両基地だった宮地駅に残る蒸気機関車時代の転車台

(神屋宗湛)

「随分、今の鉄道網に近づいてきましたね・・・。」

(島井宗室)

「なんのなんの。まだまだ。筑豊の石炭を若松港に運ぶ為に筑豊鉄道によって建設された筑豊本線は、飯塚市と筑紫野市の間の冷水峠で工事が止まっていたが、昭和4年(1929年)12月7日に筑前内野~筑前山家間の間に冷水トンネルが開通し、筑豊本線が若松~原田まで全通、鹿児島本線と繋がった。」

(神屋宗湛)

「冷水トンネルは全長3259メートルで、当時九州最長のトンネルだったんですよね!?」

(島井宗室)

「その通り。昭和7年(1932年)12月6日には日豊本線が鹿児島の国分経由でショートカットする路線が開通。以後はこちらが日豊本線となった。昭和9年(1934年)11月15日には久留米と大分を結ぶ久大線も開通。同じ年の12月1日には肥前山口~諌早間の路線も竣工して長崎本線も現在の形になったのじゃ!」

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久大線の車両基地だった旧豊後森機関庫(近代化産業遺産)

(神屋宗湛)

「・・・ということは、明治22年(1889年)の博多~久留米間の開業以来、45年かかって現在のJR九州の主要な本線である鹿児島本線、日豊本線、長崎本線、豊肥本線、筑豊本線、久大線等が全通したんですね。」

(島井宗室)

「そうじゃな。しかし、戦争の足音も迫ってきておった。昭和16年(1941年)にはアメリカとの戦争が始まると、機関車も貨物用が多く生産されるようになり、国鉄の列車は次第に旅客用よりも軍需物資を満載した貨物列車に重きを置くようになった。しかし、そのそのそそおっそその一方で、『戦争は技術を進歩させる』という言葉もあながち嘘ではなかった。昭和11年(1936年)に着工した『関門トンネル』が昭和17年(1942年)に開通し、特急『富士』が東京~博多間を門司経由で結ぶようになった。」

(神屋宗湛)

「関門トンネルは世界初の海底トンネルでしたね?日本の技術も大したもんだ。」

(島井宗室)

「昭和19年(1944年)には関門トンネルが上下複線化され、輸送力はさらに強化されたが、同じ年に特急富士も運行を終了し、昭和20年(1945年)の終戦を迎えることになった。」

[続く]

九州新幹線全通5周年・山陽新幹線博多開業41周年!九州に鉄道の幕開く!第1回博多~久留米間から始まった九州鉄道

2016 年 3 月 3 日

(島井宗室・神屋宗湛)

「皆様、お久しぶりです!」

(島井宗室)

「宗湛よ、久々の登場で我らのことをご存知ない読者の方の為に、改めて自己紹介をしては?」

(神屋宗湛)

「叔父さん、それは賛成ですよ!」

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島井宗室・・・・1539~1615年。戦国~安土桃山時代の博多商人でも特に有名な『博多三商傑』の一人。茶人としても知られ、茶の湯を大成した千宗易(利休)とは茶人としても、同業者(貿易商)としても親交が深かった。豊後国(大分県)の戦国大名・大友義鎮(宗麟)と親しく交わり、義鎮の勢力拡大に伴って様々な営業特権を与えられた。九州を巡る三つ巴の決戦で義鎮が島津義久に敗れたことから脅威を感じ、織田信長、次いで豊臣秀吉と通じる。後に秀吉の天下統一・朝鮮出兵に協力し、文字通り『天下人の御用商人』となり、黒田長政の福岡城築城にも協力した。

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神屋宗湛・・・・1551~1635年。安土桃山時代~江戸時代初期の博多商人。島井宗室と同じ    く『博多三商傑』の一人。世界遺産となった石見銀山の経営者で、中世博多商人の極盛期を開いた人物であり、島井宗室とは遠戚にあたるとも言われる。島井宗室と同じく茶人としても知られる。千宗易の先輩格にあたる堺の豪商・茶人である津田宗及と親交を結ぶ。博多商人の指導者的立場にあって、博多の復興・朝鮮遠征軍への補給等を取り仕切り、豊臣秀吉を支える側近の一人となる。因みに、ここでは宗湛は宗室を『叔父さん』と呼んでいる。

(神屋宗湛)

「さあて、今年の3月10日で東海道・山陽新幹線は博多開業41周年!しかも、3月12日は九州新幹線全通5周年記念!」

(島井宗室)

「うむ。今回は我らで九州の鉄道史について皆様にご案内するのじゃ。」

(神屋宗湛)

「それ、いいですね~!今までボクも鉱山の経営や貿易をやって来ましたが、物流の要である鉄道についても経営してみたいと思っていたんです。」

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大分県中津市に残る九州鉄道草創期の客車

(島井宗室)

「では早速。明治5年(1872年)、歴史の教科書でも有名な新橋~横浜間に我が国で初めて鉄道が開業した。そして、それから17年経った明治22年(1889年)12月11日、民間資本である九州鉄道によって九州最初の鉄道である博多~千歳川(筑後川北岸にあった仮駅)が開通したのじゃ!」

(神屋宗湛)

「九州鉄道といえば、九州の鉄道発展に大きく貢献した会社ですね。」

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(島井宗室)

「左様。開業時の博多駅は、現在の博多駅前1丁目『出来町公園』にあったとされ、現在では『九州鉄道発祥の地』という碑が残る。また、九州鉄道としては本来、博多~久留米間を開業したかったのじゃが、筑後川を渡る橋の工事が洪水に阻まれて難航。一旦筑後川(千歳川)の手前で仮開業したとされている。しかし、九州島内の鉄道普及を目指す同社は翌年3月に筑後川架橋工事を終えて鉄道を久留米まで延伸させた。」

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(神屋宗湛)

「そういえば、筑紫野市のJR二日市駅と原田駅の間に城山三連橋梁と呼ばれるレンガ造りの九州鉄道草創期の橋梁が残っていますね。」

(島井宗室)

「同じ年の9月、博多から延びた鉄道は赤間、12月には遠賀川に到達した。翌明治24年(1891年)2月には黒崎に、4月1日には門司港まで開業し、同日には久留米から玉名までレールが伸び、現在の門司港駅傍のレンガ造りの建物が九州鉄道本社となった。」

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九州鉄道記念館にも九州鉄道草創期の客車が展示されている

(神屋宗湛)

「現在、九州鉄道記念館となっている建物がそうですね?」

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現在は修復中のJR門司港駅

(島井宗室)

「明治24年(1891年)は九州の鉄道が大きく飛躍した年じゃ。7月には久留米から熊本へ、8月には鳥栖から佐賀へと新たに路線が開業し、これらはそれぞれ後の鹿児島本線・長崎本線へと繋がっていく。因みに明治28年(1895年)4月には現在の日豊本線にあたる小倉~行橋間が開業し、翌年11月には熊本から南側についても八代まで開通した。更には明治31年(1898年)1月には早岐経由で佐世保へ、現在の大村線経由で長崎まで全通し、門司港や行橋から熊本や長崎・佐世保までが1本の鉄道で繋がった。現在のJR門司港駅は、当時『門司駅』と名乗り、明治34年(1901年)には対岸の山口県下関市を結ぶ関門連絡船が運航を開始したことで、鉄道と連絡船を介して九州と本州が一つに結ばれた。九州鉄道のターミナル駅として、本州への窓口としての門司港駅は一層賑わいを増し、これは関門トンネルが開通するまで続いた。」

(神屋宗湛)

「次回は九州の鉄道が分立・合併の時代を迎え、懐かしいアレの登場です!」

(続く)