福岡市の洋風建築巡礼①旧日本生命九州支店(福岡市赤煉瓦文化館)

2017 年 4 月 18 日

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※神屋宗湛パネル※

(神屋宗湛)

「叔父さん、今回は我々が生きた戦国の世を離れて、福岡に残る珍しい洋風建築を訪ねてみましょうよ。」

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※島井宗室パネル※

(島井宗室)

「実は私も以前から気になっている建物が天神にあるのだが・・・。」

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※旧日本生命保険株式会社九州支店(福岡市赤煉瓦文化館)※

(神屋宗湛)

「叔父さん、もしかしてこの『赤煉瓦文化館(福岡市中央区天神一丁目15番30号)』のことですか?」

(島井宗室)

「赤いレンガ造りに高いドーム、まるで東京駅のようじゃ。」

(神屋宗湛)

「叔父さん、鋭い!」

(島井宗室)

「どういうことじゃ?」

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※玄関※

(神屋宗湛)

「とりあえず、見学は無料だそうですよ。

月曜日休館 午後9時~午後9時開館ですって(12月28日~1月4日を除く)。

早速、中に入ってみましょう。」

(島井宗室)

「賛成!」

(神屋宗湛)

「福岡市内の昭和通りに面した歴史的な洋風建築として知られるこの赤煉瓦文化館、実は日本生命の九州支店として建設されたものです。」

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※生命保険会社時代の窓口の雰囲気を色濃く残す1F※

(島井宗室)

「なるほど、生命保険会社の建物だったのか!道理で1階周りが保険会社の窓口カウンターみたいな造りになっておる。」

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※辰野金吾※

(神屋宗湛)

「設計したのはこの人、佐賀県出身の辰野金吾です。」

(島井宗室)

「辰野金吾といえば・・・・」

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※武雄温泉楼門※

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※武雄温泉新館※

(神屋宗湛)

「そうなんです。辰野金吾といえば、東京駅や武雄温泉楼門、旧日本銀行本店の設計者としても有名です。」

(島井宗室)

「道理でこの赤煉瓦文化館が東京駅に似ておるはずだ。」

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※1Fカウンター※

(神屋宗湛)

「日本生命の九州支店として明治42年に竣工した後、昭和41年まで実際に店舗として使用されていました。昭和44年に重要文化財に指定されて福岡市の所有になり、昭和47年から平成2年までは歴史資料館として使用されたそうです。現在、1階部分は文学に関する様々な情報を収集・提供している『福岡市文学館』になっています。こちらはカフェとして用いられたらしく、カウンターの跡があります。」

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※小会議室※

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※中会議室※

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※大会議室※

(島井宗室)

「2階は大小の有料貸会議室になっているのじゃな・・・・。」

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※ドームの内部※

(神屋宗湛)

「因みに外観上のトレードマークとなっている尖塔部分はこうなっています。今度、ここの会議室でマンションの管理総会なんてどうでしょう?」

(島井宗室)

「おお、賛成!」

[続く]

美しい桜を愛する美しい心・・・桧原さくら物語

2017 年 4 月 10 日

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(神屋宗湛)

「皆さん、ご無沙汰しております。久々に登場の博多商人・神屋宗湛です!」

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(島井宗室)

「同じく島井宗室でございます。丁度桜の時期にこのコーナーに登場させて頂くとは実にありがたいこと・・・・。」

(神屋宗湛)

「叔父さん、折角ですから、どこかにお花見に行きましょうよ」

(島井宗室)

「確かに・・・・。花より団子という言葉があるが、我ら茶道を愛する博多商人にとって風流を愛で、季節の花を観ることが何より第一。しかし、どこへ参ろうか?」

(神屋宗湛)

「舞鶴公園なんか良さそうですが、あちらは福岡城の跡ですから、きっと官兵衛様がご案内されるのでは?」

(島井宗室)

「おお、良い場所を思いついたぞ!」

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※桧原桜公園(福岡市南区桧原1丁目5:福岡市緑のまちづくり協会HPより)※

(神屋宗湛)

「というわけで、目的地に着きましたが、ここは福岡都市高速5号線の堤インター近くの公園ですね。」

(島井宗室)

「ここは、『桧原桜公園』というのじゃ。宗湛、この公園の由来を知っておるか?」

(神屋宗湛)

「いや~、さすがに博多商人の極盛期を築いたボクも、この公園は知りません・・・・。」

(島井宗室)

「では、教えてしんぜよう・・・・。現在ではこんな立派な都市高速が通っている桧原も、昭和50年代は車両同士の離合も困難な細い農道が通っているだけであった。福岡市では道路の拡張工事を行うことにしていた・・・。」

(神屋宗湛)

「今では想像もつきませんね。」

(島井宗室)

「昭和59年3月、道路拡張工事が始まり、この地にあった数本の桜の木の1本が未だ開かぬ蕾を付けたまま伐られた。」

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※開花を目前にして1本の桜が伐られた※

(神屋宗湛)

「道路拡張の尊い犠牲ですね・・・。」

(島井宗室)

「その翌日、残った桜の幹にこんな和歌を書いた色紙がかけられていた。

『花守り 進藤市長殿
花あわれ せめては あと二旬 ついの開花を 許し給え』

折角蕾を付けた桜を伐るのは余りにも可哀そうだから、あと2週間待ってほしい、という願いじゃ。」

(神屋宗湛)

「なかなか雅なことをする人がいるものですね。進藤市長というのは、当時の進藤一馬福岡市長のことですね。」

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※桧原桜の由来を説明するパネル※

(島井宗室)

「この色紙の和歌は『短歌に託し命乞い』と題して西日本新聞にも取り上げられた。」

(神屋宗湛)

「新聞に取り上げられたことで、より多くの人がこの桜のことを知ったのですね。」

(島井宗室)

「そうじゃ。せめて今付いている蕾だけでも開花させてやろうと、他にも桜の命乞いを投句する市民が続いた。

『今年のみの 桜いとしみ 朝ごとに つぼみふくらむ 池の辺に佇つ』

『春は花 夏は葉桜 幾年を なぐさめられし 並木道かな』

『うたにたくし 花のいのちを こう人の なさけ拡ごる 春はかなしも』

『眼底に さくらをやどす ランドセル』

といった具合に・・・・。」

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※咲き誇る桧原桜※

(神屋宗湛)

「歌も素晴らしいですが、市民の心意気に心打たれますね。」

(島井宗室)

「そんな中にこんな歌があった・・・・。

『桜花 惜しむ 大和心の うるわしや とわに匂わん 花の心は (香瑞麻)』

香瑞麻とは、他ならぬ進藤一馬市長の雅号で、最初の和歌に対する返歌であった。市長もまた桜を惜しむ市民の声と歌に心を動かされたのじゃ。道路計画は変更になり、桜は残されることになった。」

(神屋宗湛)

「それで、こうして桧原桜公園として桜が咲き続けているんですね。」

(島井宗室)

「花が散り、葉桜の頃にこんな和歌がかけられていたことで、今回のお話のしめくくりじゃ。

『葉桜の そよぐ梢の 風涼し 花守り市長の 情け通じて』」

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※今年も力強く咲いた桧原桜※

(神屋宗湛)

「めでたしめでたし。」

(島井宗室)

「それは私が言いたかったのに~!」

[続く]

古城をゆく・・・・震災を乗り越えて甦れ!熊本城 最終章(西郷隆盛VS熊本城不死鳥伝説)

2017 年 2 月 28 日

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(黒田長政)

「熊本城も最終回ですね。」

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(黒田官兵衛)

「うむ。熊本城を築いた加藤清正は1611年に亡くなり、息子の加藤忠広が跡を継いだが、1632年に徳川幕府への反逆の疑いで加藤家は取り潰しになり、新たに細川氏が熊本藩主として熊本城に入った。」

(黒田長政)

「細川氏の統治時代は明治維新まで230年余りに及び、細川氏が加藤氏の築城事業を引き継いだ形で本丸の増築と二の丸の整備が行われたといいます。」

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(黒田官兵衛)

「明治維新に入って、熊本城の扱いについて『戦国の余物』『無用の贅物』として解体する意見もあったが、陸軍の熊本鎮台(九州方面軍司令部)が置かれ、明治政府の一大拠点となった。」

(黒田長政)

「そうした中、熊本城の運命を大きく変える出来事が起こります。」

(黒田官兵衛)

「当時、隣の鹿児島では明治維新の功労者であった西郷隆盛は朝鮮に対する出兵計画『征韓論』を主張して政争に敗れて政府の参議を辞任して鹿児島へ帰っていた。明治政府は追い打ちをかけるように士族階級への年金廃止、廃刀令などを発した為に、徳川幕府打倒に貢献したはずの旧薩摩・長州・佐賀等の藩士達は不満を募らせ、明治7年には佐賀の乱が、明治9年には神風連の乱・秋月の乱・萩の乱勃発と、士族の反乱が次々に起こった。」

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※西郷隆盛

(黒田長政)

「こうした中、西郷隆盛は明治10年2月15日、薩摩の士族約1万人余を率いて鹿児島を出発。一路、政府の軍事拠点となっていた熊本城を目指しました。西南戦争の始まりです。九州各地の士族が続々と西郷軍に合流し、その数は3万人にも及びました。一方、熊本城に置かれた熊本鎮台には司令官・谷干城以下、4000名余が配置されていました。」

(黒田官兵衛)

「西郷軍は2月21日には熊本城を攻囲したが、何とその前に天守閣が炎上してしまった。」

(黒田長政)

「何ですと?」

(黒田官兵衛)

「天守閣炎上については、西郷軍の攻撃ではなく、砲撃を受けた場合に天守閣が恰好の目標になる為、城に籠る政府軍の児玉源太郎参謀(後に日露戦争で活躍)の手で焼き払われたそうじゃ。」

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※※西郷軍を苦しめた石垣の武者返し※※

(黒田長政)

「約1万4000とも云われる西郷軍は、その一部を熊本海岸の警備に充て、全力で熊本城を攻撃します。西郷軍は天守閣を正面に見据える形で、現在の市役所方面から桐野利秋隊、地方裁判所・来た警察署方面から池上四郎隊、背後の上熊本・壇山町方面から篠原国幹隊・別府晋介隊など錚々たる面々で熊本城を強襲しました。西郷隆盛は『清正公と戦ばしよるごたる』と余裕を見せ、熊本鎮台司令官の経験もある西郷軍の副将・桐野利秋は、『熊本城など一ひねりで落とせる』と豪語しますが、数倍の兵力の攻撃を受けながら熊本城の硬い守りは破れませんでした。」

(黒田官兵衛)

「一方の明治新政府は各地に整備した電信網を使って東京と現地部隊との綿密な連携が出来、大阪方面からの応援部隊を迅速に移動させることが出来た。2月末から3月初めにかけ、小倉から南下した政府軍の応援部隊が熊本の北、玉名や植木に進出してきた為、西郷軍は熊本城攻撃から戦力を引き抜き、迎え撃つ体制をとった。これが西南戦争最大の激戦・田原坂の戦いじゃ。」

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※谷村計介伍長像

(黒田長政)

「西郷軍の主力が田原坂へ移動して包囲部隊から離れた為、熊本城への攻撃は弱まったものの、熊本城が依然として包囲されている状態であったことには変わりなく、徐々に食糧不足などの問題も発生していました。天守閣1階に建つこの像は、西郷軍に包囲された熊本城を脱出し、玉名の政府軍本隊に見事伝令として援軍を求めた政府軍・谷村計介伍長像です。」

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※田原坂古戦場

(黒田官兵衛)

「3月1日からの田原坂の戦いでは両軍一進一退の激しい戦いが続いた。戊辰戦争で薩摩藩士と刃を交えた旧会津藩士らが政府軍の『警視庁抜刀隊』として召集され、士族出身者が多い薩摩軍と互角に戦った。『戊辰戦争の借りを返し、朝敵の汚名を返上しよう』と彼らは文字通り剣を振って非常に勇敢に戦ったという。」

(黒田長政)

「そういえば、熊本城と政府軍本隊の伝令を務めた谷村計介伍長像も大役を果たした数日後には田原坂の戦いで戦死しています・・・。本当に激しい戦いだったのでございますな。」

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※熊本城に展示される西南戦争時の兵士の装備

(黒田官兵衛)

「鹿児島などの武器庫を接収していたとはいえ、西郷軍の装備は明治新政府軍と比較して劣っていた。しかも、この田原坂の戦いで桐野利秋と並ぶ薩摩軍副将格の篠原国幹が戦死する等、補給体制が不十分な薩摩軍にとっては致命傷となるほどの大打撃を蒙った。」「明治10年4月14日、日奈久から北上した政府軍の応援部隊は熊本城に到達。小倉から南下した政府軍に田原坂で敗れ、八代・日奈久方面での防衛にも失敗した西郷軍は熊本城の包囲を解いて菊池へ、更には人吉方面へ退却した。55日間に及んだ籠城戦は政府軍の勝利に終わった。戦後、西郷隆盛は『政府軍に敗れたのではない。清正公に負けた』と敗戦の弁を述べたそうじゃ。」

(黒田長政)

「熊本城解放から半年近く経った明治10年9月24日、鹿児島・城山に追い詰められた西郷隆盛は政府軍の総攻撃を受けて自害。西南戦争はここに終結しました。西南戦争は、佐賀の乱・神風連の乱・秋月の乱・萩の乱と続いた士族の反乱の内、最後にして最大の反乱でした。同時に明治新政府にとっては最大の危機でした。」

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※大久保利通像

(黒田官兵衛)

「西南戦争の最中、長州藩出身の木戸孝允が病死。更に、翌明治11年5月14日には、紀尾井坂の変で旧加賀藩出身の士族らに暗殺され、維新の三傑と称された西郷・大久保・木戸は斃れ、佐賀藩出身の大隈重信も間もなく失脚したことから、明治新政府は若い伊藤博文(後の初代内閣総理大臣)の手に委ねられることとなった。」

(黒田長政)

「西南戦争で熊本城が西郷軍の猛攻に耐え凌いだことは、明治維新後の大きなターニングポイントになったのですね。」

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※復元された熊本城天守閣

(黒田官兵衛)

「そういうことになるのう。西南戦争後も熊本城には陸軍部隊が駐屯したが、昭和8年に熊本城跡が国の史跡に指定され、昭和30年には国の特別史跡に昇格した。更に、昭和35年には復活を願う市民からの募金により、93年ぶりに天守閣が復活したのじゃ!他にも熊本城跡には高校や大学が移転すると共に、加藤清正を祀る加藤神社や、護国神社、美術館・博物館が移転し、市民の憩いの場として熊本城二の丸が『二の丸公園』として整備された。」

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※※三の丸跡に移設された細川刑部邸※※

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※復元された熊本城本丸御殿

(黒田長政)

「平成に入ると、熊本藩主・細川氏の重臣であった旧細川刑部邸も三の丸に移設整備されました。そして、平成19年、築城から100周年を迎えた熊本城本丸御殿が再建されました。同時に戌亥櫓、未申櫓、南大手門等も復元されました。他の門や櫓・塀等も再建が計画される中、運命の平成28年4月14日を迎えます。同日に発生した熊本地震の影響により、熊本城の全石垣約7万9000平方メートルのうち、50カ所の約2万3600平方メートル、517面で石垣の崩落、膨らみ、緩みが発生。そのうち、崩落は50カ所、229面に及びました。建物は前震のあった4月14日の時点では重要文化財建造物10棟に被害が確認され、その内長塀は80メートルの倒壊、瓦・外壁落下など9棟に被害が発生しました。皮肉にも、この日は熊本城が西郷軍の攻撃を撃退してから139年目のことでした。復興には20年以上の期間と300億円以上の費用が見込まれています。」

(黒田官兵衛)

「なあに、大丈夫じゃよ。熊本城は『火の国熊本』のシンボル。古代から城郭が築かれた要衝の地に名築城家・加藤清正が築き、細川氏が整備し、熊本の人々によって今日まで守られてきた名城の中の名城じゃ。必ずや不死鳥の如く蘇り、もう一度その美しい姿を現してくれようぞ。今では『ありのままの熊本城を観てもらって復興を応援するツアー』を催している旅行会社もあるそうじゃ。」

(黒田長政)

「何だか私達も急に熊本城を見に行きたくなりましたね・・・。」

(黒田官兵衛)

「よし、善は急げじゃ!」

(続く)

古城をゆく・・・・震災を乗り越えて甦れ!熊本城 参の巻(~加藤清正~本丸御殿「昭君の間」の秘密~)

2017 年 1 月 21 日

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(黒田長政)

「父上、あけましておめでとうございます!」

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(黒田官兵衛)

「おめでとう。ちと遅いが・・・・(怒)」

(黒田長政)

「熊本城特集をやっているうちに新年になってしまいましたな。」

(黒田官兵衛)

「まったく、平成28年中に終わらせると断言しておった作者に責任を取らせたいくらいじゃよ。」

(黒田長政)

「まあ、作者も株式会社えん建物管理の一員で忙しい時期、しかも、めでたい年明けですし、ここは父上も収めて収めて・・・。」

(黒田官兵衛)

「では、気を取り直して・・・。」

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(黒田長政)

「今回は2007年に復元された本丸御殿です。」

(黒田官兵衛)

「本丸御殿復元は熊本城築城400周年記念事業であったのう?」

(黒田長政)

「それでは遅まきながら、熊本城を築いた加藤清正のプロフィールを・・・。」

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加藤清正

1562~1611年。豊臣秀吉と同じく、尾張中村(現在の愛知県名古屋市)の出身。1573年、織田信長の重臣として近江長浜城主となった秀吉に小姓として仕官する。本能寺の変後、明智光秀との山﨑の合戦、柴田勝家との賤ヶ岳の合戦に参加して奮戦し、「賤ヶ岳の七本槍」に数えられる。秀吉の九州平定戦に従い、佐々成政の切腹後に肥後国(熊本県)の北半国を領地として与えられ、熊本城を築城する。秀吉の命令で朝鮮半島へ出陣した際(1592~1598年の文禄・慶長の役)には、首都ソウルを攻略した他、虎退治をしたという伝説も残っている。後に南半国も領有し、初代熊本藩主となる。

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※本丸御殿正面

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※天守閣から見た本丸御殿

(黒田官兵衛)

「ここが清正をはじめ、歴代熊本藩主が過ごした本丸御殿じゃな・・・。」

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(黒田長政)

「なかなかに見事な建物で、清正めもやりますな・・・。ちなみに、この本丸御殿の地下は天守閣への通路にもなっており、強固な木材が地下道の天井として本丸御殿を支えています。」

(黒田官兵衛)

「御殿の内部も見てみたいのう。」

(黒田長政)

「では、玄関の方から・・・失礼しま~す。」

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(黒田官兵衛)

「大きな囲炉裏じゃ。ここが大御台所、つまりキッチンじゃな。」

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(黒田長政)

「火を使う場所なので、大御台所の天井は吹き抜けになっており、屋根の構造が良くわかります。」

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※本丸御殿控の間

(黒田官兵衛)

「この和室は随分広いが、これは大広間に続く控えの間か?」

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(黒田長政)

「建物の脇を通る廊下も、江戸城松の廊下を髣髴させる見事なものですね。中庭もあったのでしょう。因みに、福岡城の本丸御殿もこれくらい立派だったんですぞ!」

(黒田官兵衛)

「今は何も残っておらぬがのう・・・。」

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(黒田長政)

「グスン・・・(気を取り直して)こちらが大広間。まさに謁見などが行われる公式行事の舞台です。ふすま絵も見事に復元されております。」

(黒田官兵衛)

「いや~、清正が築いた熊本城にこれほど見事な御殿があったとは・・・。さすが築城の名手じゃ。加藤清正は現在でこそ『築城の名手』として知られておるが、ワシから見れば、長政と一緒に石田三成を襲撃した荒くれ者の一人ぐらいにしか記憶しておらぬがのう。」

(黒田長政)

「そんなこともございましたな(恥)。石田三成等、五奉行は戦場で命を掛けて戦う私や加藤清正・福島正則に上から目線で命令し、奴等がする仕事といったら田畑を検地したり、軍隊に補給をしたり、秀吉様の命令を書面に起こしたりと、戦に比べればどうでも良いことばかり。」

(黒田官兵衛)

「豊臣家にとってはどちらも大切なことじゃがのう。」

(黒田長政)

「しかし、秀吉様の命令で朝鮮半島に攻め込んだ時も、現地での我等の手柄を石田三成等に握り潰されたではございませんか?」

(黒田官兵衛)

「確かにのう。」

(黒田長政)

「しかも、1598年に朝鮮半島での戦いの最中に秀吉様が亡くなると、三成等の態度は益々大きくなる始末。」

(黒田官兵衛)

「そこで、長政と加藤清正・福島正則・加藤嘉明、それに池田輝政・浅野幸長・細川忠興の七将で石田三成を襲撃した訳じゃな?しかし、両加藤と福島は喧嘩早いので有名な『賤ヶ岳の七本槍』の内の三人。そして、池田・浅野・細川はやはり喧嘩早いので有名な名家の跡取り息子。周りは良い迷惑じゃったろうな。」

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※徳川家康

(黒田長政)

「今になって考えれば・・・・。しかも、三成には逃げられてしまい、我等七名は五大老筆頭の徳川家康様からはキツいお叱りを受けたのでございます。『お前達はチンピラか!』と。」

(黒田官兵衛)

「ふふ、チンピラとは家康殿も上手いことを仰る。」

(黒田長政)

「その後、1600年の関ヶ原の合戦では加藤清正は我が黒田家と行動を共にすることになります。」

(黒田官兵衛)

「あの時、長政には関ヶ原に出陣してもらったが、加藤清正は熊本城に残り、ワシと共に九州では少数派の東軍として行動した。ワシが中津城を発って国東半島の西軍の城を攻略し、西軍として上陸してきた大友吉統と石垣原で戦っている間に、肥後の南半分を支配する小西行長の宇土城を攻略し、更にワシと協力して立花宗茂の柳川城を攻略したのじゃ。」

(黒田長政)

「清正はこの功績により、小西行長の旧領である肥後南部を併合し、加藤清正は初代熊本藩主となったのですが、その後も徳川幕府に名古屋城築城などで表面的には協力しつつも、豊臣秀頼への個人的忠節を忘れず、京都二条城で徳川家康・豊臣秀頼両者が対面した際には浅野幸長と共に護衛役を務め、豊臣恩顧の大名であることを徳川幕府に見せつけました。」

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※大坂城

(黒田官兵衛)

「徳川家が豊臣家を滅ぼした大坂の陣の直前、浅野幸長・加藤清正が相次いで亡くなった。二人が生きておれば大坂の陣は回避できたかもしれぬし、福島正則や島津家久も豊臣方に味方して戦況は変わっていたかもしれん。じゃから、二人は徳川幕府に毒殺されたという説もあるほどじゃ。」

(黒田長政)

「確かに、その様な噂も聞いたことがございますな・・・。さあ、この大広間の奥に見事な障壁画が設えられた一室が『昭君の間(しょうくんのま)』でございます。」

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(黒田官兵衛)

「おお、これは見事じゃ!」

(黒田長政)

「この部屋には鶯張りの廊下や外へと通じる隠し通路があったといい、藩主の居間として使われていたようで、中国の故事に登場する王昭君の絵画があることから『昭君之間(しょうくんのま)』と呼ばれています。しかし、実は昭君(しょうくん)=将軍をもじったものという説があり、豊臣家が危機に陥った際には加藤清正が豊臣秀頼を匿う要塞=熊本城だったという説の根拠になっています。」

(黒田官兵衛)

「なるほど。確かに築城の名手らしい熊本城の秘密じゃ。豊臣の旗を掲げ、秀頼を援けて熊本城に籠城する清正の戦いぶり、見てみたかった気もするのう・・・。」

(黒田長政)

「結局、加藤清正の時代も、後に細川氏が熊本藩主になった時代も熊本城が実戦を経験することはありませんでした。しかし、築城から200年以上も経った明治時代、熊本城は最強の敵を迎えて大奮戦することになります・・・。」

[続く]

古城をゆく・・・・震災を乗り越えて甦れ!熊本城 弐の巻(小西行長と宇土櫓伝説)

2016 年 11 月 18 日

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(黒田官兵衛)

「前回から熊本城の特集じゃが・・・・」

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(黒田長政)

「今回は予告通り宇土櫓(うとやぐら)でございますぞ。熊本城本丸の西北側にある宇土櫓は国指定の重要文化財です。築城当時のものが残っている建物で、熊本地震以前は一般公開され、内部の見学ができました。三層五地下一階建て構造で、大天守や小天守と並ぶ規模のため、熊本城の「第三の天守」とも呼ばれます。明治のはじめ頃までは、他にも同規模の五階櫓がありましたが、現在は宇土櫓だけになりました。」

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※熊本地震以前の宇土櫓全景

(黒田官兵衛)

「長政よ、宇土櫓が宇土城から移された物という説は知っておるか?」

(黒田長政)

「はい。宇土城といえば、加藤清正と共に肥後半国を与えられた武将、小西行長が築いた城。」

(黒田官兵衛)

「そうじゃ。小西家は元来、備前国岡山の戦国大名・宇喜多氏に出入りする御用商人であった。当時、織田家の中国方面軍司令官だった太閤様(豊臣秀吉)が宇喜多氏を従えた際に、小西行長は豊臣家の家臣となったのじゃ。勿論、ワシの根回しによるものじゃ。フフフ。」

(黒田長政)

「久しぶりに父上の自慢話でございますな~。」

(黒田官兵衛)

「熊本の皆様へのお約束にリップサービスってやつじゃよ。」

(黒田長政)

「当時の商人は自ら武器を持ち、兵を雇って強力な武装集団を擁していました。また、商売柄、船の扱いに長けており、自身の水軍を率いていました。商人は中立性が高いことから、僧侶と共に外交官として活躍することもありました。」

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※小西行長銅像(宇土市)

(黒田官兵衛)

「そうじゃ。太閤様は小西行長の高い交渉能力と、商人ならではの物流構築能力を評価し、小西行長は紀州征伐や九州平定戦では補給参謀・水軍指揮官としても活躍した。小西行長はキリシタンであり、キリスト教が禁教(バテレン追放令)となった後も信仰を棄てなかったという。」

(黒田長政)

「前回の話と重複しますが、九州平定後に発生した肥後国一揆の結果、小西行長と加藤清正で南北に分割統治されることになり、小西行長は宇土城を築いたのでございましたな。」

(黒田官兵衛)

「しかし、賤ヶ岳の七本槍の一人でもある武断派の加藤清正に対し、商人出身で水軍衆や補給線、外交官等の裏方経験が長い行長は国境線等を巡って対立。更には朝鮮半島出兵における作戦に対する意見対立で決定的に険悪な中となった。」

(黒田長政)

「1600年の関ケ原の戦いでは、小西行長は石田三成率いる西軍の主要人物となりますが、合戦は僅か1日で西軍が敗北。」

(黒田官兵衛)

「あ~あ、あの時、長政が小早川秀秋を裏切らせてあっという間に勝敗がついたせいで、ワシが九州全域を制圧する作戦が夢幻になってしまったワイ。」

(黒田長政)

「・・・・(父上、それは言わない約束)・・・。コホン、関ケ原から伊吹山中に逃れた小西行長は東軍方(徳川家康側)に捕らえられて処刑されました。切腹をしなかったのはキリシタン大名だったからとされています。」

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※熊本地震以前の宇土櫓と回廊部分

(黒田官兵衛)

「宇土城はその後、加藤清正が攻略し、小西氏は滅亡した。残念ながら、今年4月の熊本地震により、宇土櫓にも被害があり、回廊部分は完全に倒壊したという。」

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※熊本地震以前の宇土櫓内部(回廊部分)

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※熊本地震以前の宇土櫓内部(櫓部分)

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※熊本地震以前の宇土櫓内部(狭間の銃眼)

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※宇土櫓の構造を示す模型

(黒田長政)

「しかしながら、宇土櫓本体はその古風な外観を保っているそうで、当時の築城技術に対して称賛する声が上がっております。」

(黒田官兵衛)

「確かにそれは凄いことじゃ。敗軍の将として斬られたが、宇土城を築いた小西行長も少しは溜飲が下がろうというもの。」

(黒田長政)

「父上、その宇土櫓=宇土城の天守閣という説でございますが、都市伝説の一つとして否定する説が有力でございますぞ。」

(黒田官兵衛)

「なに、それは誠か?」

(黒田長政)

「は、宇土櫓を解体調査した際、使用されている木材に再使用の痕跡が見つからなかったそうでして・・・・。」

(黒田官兵衛)

「なるほど。しかし、やはりこの宇土櫓は熊本城の天守閣にも匹敵する存在感。他の城の天守閣だったという説が広まったのも無理はなかろう。」

(黒田長政)

「宇土櫓という名前は、小西行長の元家臣らにこの櫓を管理させたことにより、名づけられたという説が有力です。」

(黒田官兵衛)

「いや~、今回は勉強になったのう。」

(黒田長政)

「それにしても、こんな大きな櫓が大天守・小天守・宇土櫓と三つもあるのはやはり凄いですな。」

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※宇土櫓から熊本城二の丸を望む

(黒田官兵衛)

「しかも、この高さ19メートルの宇土櫓からの眺めの素晴らしさ。」

(黒田長政)

「本当ですね。」

(黒田官兵衛)

「あ~あ、誰かさんが福岡城にも天守閣を造ってくれていたら・・・・。」

(黒田長政)

「父上、そんなに同じネタでイジメなくても・・・・。うわ~ん!!!」

(黒田官兵衛)

「(焦・・・)な、長政よ、じ、冗談じゃ。こらこら、泣くな泣くな。お前は仮にも福岡52万石であろうが・・・・。よしよし、いい子いい子。さ、次は本丸御殿じゃ・・・。」

[続く]

古城をゆく・・・・震災を乗り越えて甦れ!熊本城 壱の巻(熊本前史)

2016 年 11 月 7 日

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(黒田官兵衛)

「あっという間に11月じゃのう。朝は息が白いわい。」

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(黒田長政)

「・・・・。」

(黒田官兵衛)

「長政よ、どうしたのじゃ?ガラにもなく新聞なぞ読んで?」

(黒田長政)

「今年の4月に起こった熊本地震。あれから半年以上が経ちまするが、未だに避難生活を強いられている方もおられるとか。労しい限りです。」

(黒田官兵衛)

「ふむ、確かに。今回の地震は尊い人命が失われただけでなく、難を逃れた人々の生活にも大打撃を受けた。」

(黒田長政)

「そればかりではございません。熊本城や阿蘇神社、通潤橋といった熊本の魂というべき名所も地震で大きな被害を受けております。それを思うと・・・・。」

(黒田官兵衛)

「なるほど・・・・。しかし、長政よ。熊本城では既に復興資金を集める為の復興城主募集が始まっておるというし、我等父子にも出来ることがあるぞ!」

(黒田長政)

「それは何でございますか?」

(黒田官兵衛)

「熊本城の素晴らしさ、かつての勇姿を皆様にお伝えすることじゃ!」

(黒田長政)

「確かに。熊本城の素晴らしさ、我等の手でお伝えいたしましょう!」

(黒田官兵衛)

「では早速、城の中心・天守閣から、この熊本城の由来についてスタートじゃ。」

(黒田長政)

「承知いたしました!」

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【熊本城】

戦国時代の築城の名手・加藤清正が15年の歳月をかけて築いた熊本県最大の城郭にして、火の国熊本のシンボル。別名「銀杏城」。熊本藩主加藤家、続いて細川家の居城となった。江戸時代に実戦経験はないが、明治時代の西南戦争においては西郷隆盛率いる薩摩軍の猛攻を退け、清正の築城技術が改めて評価される結果となった。現在、城跡は特別史跡に指定されている他、宇土櫓等の当時の建造物が重要文化財に指定されている。

(黒田官兵衛)

「肥後国、つまり現在の熊本県は平安時代以来の豪族として有名な菊池氏がいたが、他にも阿蘇氏、人吉の相良氏、八代の名和氏、宇土の宇土氏等がおり、菊池氏を盟主としてそれぞれの地域を分割統治する体制が長く続いた。」

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※菊池城跡に建つ菊池武光騎馬像

(黒田長政)

「菊池氏の全盛期といえば、菊池武光の時代ですな。」

(黒田官兵衛)

「左様。南北朝時代、菊池武光は後醍醐天皇の皇子・懐良親王(かねながしんのう)を擁して九州の全域を制覇していた。しかし、その後は足利幕府の攻撃を受け、菊池氏内部にも分裂が起こって弱体化し、以後、肥後の支配者は大友宗麟、龍造寺隆信、島津義久と目まぐるしく変転した。」

(黒田長政)

「熊本城は、もともと隈本城と言い、菊池氏の家来である鹿子木氏が建てたのでございましたな。」

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※豊臣秀吉

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※佐々成政

(黒田官兵衛)

「その通り。やがて太閤様(豊臣秀吉)の九州征伐が始まると、隈本城には豊臣家の武将・佐々成政が入城した。」

(黒田長政)

「佐々成政はかつて太閤様と戦ったこともある武勇の将でございますな。」

※肥後国一揆の首謀者・隈部親永像(山鹿市)

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(黒田官兵衛)

「ところがじゃ。佐々成政は土地の所有者である国人(地方豪族)と耕作者である農民を分離する検地を強行しようとして隈部氏・阿蘇氏・甲斐氏・和仁氏らの国人衆の反感を買い、肥後国一揆が勃発してしまった。」

(黒田長政)

「あの時は父上も一揆鎮圧の加勢として熊本に向かわれたのでございましたな。お疲れ様でした。」

(黒田官兵衛)

「結局、一揆は鎮圧されたものの、佐々成政も統治の不手際を責められて切腹。肥後の南半分には太閤様の信任厚い小西行長に、北半分には長政とも仲が良い『賤ヶ岳の七本槍」加藤清正にそれぞれ与えられ、加藤清正は隈本城に入った。」

※加藤清正像

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※城内の加藤神社

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(黒田長政)

「いよいよ築城の名手とされる加藤清正の登場ですね。」

(黒田官兵衛)

「加藤清正は南東の白川を天然の濠に見立て、茶臼山にあった古い隈本城を取りこむ形で新しい城を築いた。」

(黒田長政)

「天守閣は大天守と小天守を繋いだ連結式望楼型と呼ばれる形式で、大天守は三重6階地下1階、小天守は三重4階地下1階構造にそれぞれなっております。」

※小天守から見た大天守

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※大天守から見た小天守

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(黒田官兵衛)

「おお、よく予習してきておるのう。」

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(黒田長政)

「こちらは厠(トイレ)だったようですな。そして、こちらは天守台に築かれた階段。」

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(黒田官兵衛)

「察するところ、こっちの階段が本来の天守閣への入り口だったようじゃのう。」

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(黒田長政)

「この天守閣は、明治時代の西南戦争で焼失し、昭和35年にコンクリート造で復元されたものです。」

※展示される鯱と江戸時代の天守閣の構造模型

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(黒田官兵衛)

「現在はこの様な博物館になっておるのじゃな。」

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(黒田長政)

「今回の震災では天守閣の瓦の大部分が剥落した模様ですが、もう一度この様な綺麗な姿になってもらいたいですね。」

(黒田官兵衛)

「全くじゃ。次回は江戸時代当時の建物が残っていた宇土櫓を紹介するとしよう。」

[続く]

古城をゆく・・・・海に向かって広がる舞鶴の翼・唐津城

2016 年 9 月 15 日

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(母里太兵衛)

「ふわぁーっ、退屈じゃー。もうすぐシルバーウィークとやらで世間の皆様は秋の休日を楽しむそうじゃが、共に旅に出るいい相手がおらんし。又兵衛の奴は博識の男だから、それがしと違って大殿(黒田官兵衛のこと)や島井宗室殿の話し相手として引っ張りだこだし、殿(黒田長政のこと)の相手をするとそれがしに勝つまでやりたがるし・・・・。」

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(後藤又兵衛)

「太兵衛殿、御在宅ですかな?」

(母里太兵衛)

「なーんだ、又兵衛ではないか?」

(後藤又兵衛)

「『なーんだ』とはごあいさつですな!せっかく旅行に誘いに来たのに。いくら休みだからといって昼間からゴロゴロしていては体がなまりますよ。」

(母里太兵衛)

「どこへ行こうというんだ?それがしは同じ武士でも、又兵衛や小早川様のように、難しい人物評などはついていけんぞ。」

(後藤又兵衛)

「いやいや。実は太兵衛殿がそのように思っておられようと思い、一緒に九州各地の城を巡る旅に出ようかと。」

(母里太兵衛)

「グスン。又兵衛ぇ、おぬしは実にいい後輩じゃ~!早速出かけるとしよう。」

(後藤又兵衛)

「いやあ、喜んでもらえて私も・・・・。って太兵衛殿!そんなに荷物を背負っては家から出られませんぞ。夜逃げじゃないんだから!」

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唐津城

江戸時代初めに初代唐津藩主・寺沢広高によって現在の唐津市に築城された城郭。福岡市の名島城跡と同様に、唐津湾に面した海城である。かつては隣接する早稲田佐賀中学・高校の敷地が当城の二の丸であり、三の丸は現在の唐津市役所付近まで伸びていた。現在では天守台跡に復元天守閣が建てられ、『唐津くんち』と並ぶ唐津市の観光シンボルとなっている。

(母里太兵衛)

「いやあ、ようやく唐津に着いたぞ~。ここがJR唐津駅か。又兵衛、ここから歩くか?」

(後藤又兵衛)

「太兵衛殿。槍なぞ持って唐津の街を闊歩されては周りが迷惑です。ここは市内バスに乗りましょう。このバスに乗れば10分位で唐津城への城内橋がかかる宝当桟橋です。」

(母里太兵衛)

「りょうか~い・・・・。お、これは唐津市役所かな?石垣があるということは、ここまで城の敷地だったということか?」

(後藤又兵衛)

「そうです。かつての唐津城の敷地の内、二の丸の一部は中学校・高校に、三の丸は市役所等の市街地に生まれ変わっていますが、市内には他にも城の遺構が多く残っています。ほら、あそこに見えるのは江戸時代中頃に置かれた『時の太鼓』つまり時計台を復元したものです。」

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(母里太兵衛)

「おいおい、そうこうしているうちに目的地の宝当桟橋に着いたぞ。」

(後藤又兵衛)

「因みにこの宝当桟橋は、宝くじ等にご利益があるとされる宝当神社に向かう船が出ています。ジャンボ宝くじの発売前なんかは賑わうんですよ。」

(母里太兵衛)

「しかし、今日は唐津城に向かって桟橋から城内へ向かうお客さんも多いようだわい。」

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(後藤又兵衛)

「実は、唐津城二の丸にある藤棚は、今の時期にとても美しく花を咲かせるんですよ。わざわざ遠方から藤棚を観る為に唐津へ来る人もいるくらいです。それに、唐津城は桜の名所としても知られており約500本もの桜が植えられています。」

(母里太兵衛)

「それにしても、この城内橋から見える唐津城天守閣は実に美しい。ガイドブックにあるとおり、城の周囲に広がる名勝『虹ノ松原』を鶴の翼に見立てて唐津城を『舞鶴城』と呼ぶのも分かるわい。」

(後藤又兵衛)

「まったくです。さて、太兵衛殿。一応、エレベーターもあるのですが、ここは運動不足の太兵衛殿の為に石段を登って藤棚を愛でましょう。」

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(母里太兵衛)

「たく、人を年寄り扱いしおって。でも、今度大殿をお連れする場合にはエレベーターが役に立つであろう。まだまだウォーキングではおぬしには負けんぞ・・・・。おお、これが唐津城の藤棚か!」

(後藤又兵衛)

「見事でしょう?この藤は唐津市の天然記念物に指定されています。」

(母里太兵衛)

「しかし、それがしにはやはり『花より団子』だわい・・・・。いかん、名産の大原松露饅頭を買い忘れた!」

(後藤又兵衛)

「ハハッ。後で駅近くの本店で殿へのお土産に一緒に買いに行きましょう。さあ、あと少しで本丸に入る櫓門ですぞ。」

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(母里太兵衛)

「それにしてもゴツい門構えじゃ。唐津藩・寺沢氏の飛び地の天草を含めて石高は12万石。我が黒田藩の4分の1の収入でこんなに立派な門扉や石垣がよく造れたもんだ。」

(後藤又兵衛)

「唐津城と城下の開発については、佐賀藩・熊本藩等の協力を受けた他、建築資材を呼子町の肥前名護屋城から運び込んだといわれています。今でも各藩の協力を得て開発した地域にはその名称、例えば肥後堀などの地名が残っています。」

(母里太兵衛)

「ふーっ。これが天守閣か?」

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(後藤又兵衛)

「そうです。福岡城同様に唐津城の天守閣はなかったといわれていますが、昭和41年に郷土資料館として安土桃山様式の五層の天守閣が建てられました。中には寺沢氏以前に唐津を治めた松浦党(松浦水軍)や隠れキリシタン史、唐津藩に関する資料などが展示されています。」

(母里太兵衛)

「やっと最上階か~!おお、ここからは虹ノ松原がよく見える。」

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(後藤又兵衛)

「国指定特別名勝・虹ノ松原は、初代唐津藩主・寺沢広高が新田を開発した際に約100万本もの黒松を植林して防風林として活用したのがはじまりです。」

(母里太兵衛)

「唐津はもともと松浦党(松浦水軍)の総帥・波多親の領地だったっけ?」

(後藤又兵衛)

「そうです。平安時代末期の源平の戦いや、鎌倉時代後期のモンゴル軍襲来で活躍した肥前国(佐賀県)北部の武士団が松浦党です。波多親はその松浦党内部でも最大勢力を誇る武将でしたが、太閤様の命令で朝鮮半島に出陣した際に多くの軍令違反を犯して領地没収となり、石田三成と並ぶ太閤様の側近官僚だった寺沢広高に唐津の地が与えられました。」

(母里太兵衛)

「寺沢広高について、それがしはよく知らんのだ。」

(後藤又兵衛)

「彼は、太兵衛殿や私のような武芸に秀でた者とは違いますが、一方で短期間に日本軍総勢30万の遠征拠点・肥前名護屋城を築くなど、築城者として有能でありました。」

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※日本二十六聖殉教者(大浦天主堂・長崎市)

(母里太兵衛)

「寺沢広高というと、長崎奉行としてキリシタン二十六聖人の処刑を行ったし、彼の死後に分国(飛び領地)である天草で島原・天草の乱が勃発しているから、どうも為政者として酷薄な人物のような気がするが・・・・。」

(後藤又兵衛)

「しかし、太兵衛殿。この唐津城や虹ノ松原を見て頂ければ、広高が与えられた唐津の地を大切にし、強い思い入れをもって統治を進めたことが分かりますよね?」

(母里太兵衛)

「寺沢広高にとっては、唐津は全く見知らぬ地だったはず。しかし、唐津の地を愛すればこそ現在のような街並みにする種を蒔いたのだな。きっと、我が殿が福岡の地を開いたように・・・・。」

(後藤又兵衛)

「そうですな。いつか殿や大殿も唐津の地にお連れしましょう。桜の季節か、十一月の唐津くんちの季節も良いですな。」

(母里太兵衛)

「そうだ、その時はそれがしが松露饅頭を菓子にして皆さんにお茶を一服・・・・。」

(後藤又兵衛)

「そ、それよりも太兵衛殿は曳山を引く方が似合うのでは?あの詩ですよ!『さ~け~は~の~め~の~め~』って黒田節を奏でつつ・・・・。」

(母里太兵衛)

「そ、そうかあ?」

[続く]

暑さを吹き飛ばそう!平安京を誕生させた夏の暑さ以上に熱い漢(おとこ)和気清麻呂を祀る和気神社(鹿児島県霧島市)

2016 年 8 月 1 日

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(黒田官兵衛)

「いや~、暑い暑い!暑いのう、長政よ。」

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(黒田長政)

「父上、そのように暑いばかり言っておられては家臣に示しがつきませんぞ。」

(黒田官兵衛)

「うるさい、ワシは暑いの苦手なんじゃ。暑いと、ワシの優れた頭脳まで破壊されそうじゃ。ホレ、太兵衛、もっと煽がんかい!」

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(母里太兵衛)

「大殿、ここは槍の素振りでもして温泉でも入られてはどうでござる?酒も美味いと思いまするぞ。」

(後藤又兵衛)

「では、福岡の地を離れて湯煙の湧く温泉地・霧島へ参りましょう。道中は和気神社に寄るというのはどうでしょう?」

(黒田長政・母里太兵衛)

「和気神社!?」

(黒田官兵衛)

「早速出発じゃ!」

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(黒田長政)

「というわけで、霧島に着いたが、和気神社というのは?」

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※和気清麻呂

(後藤又兵衛)

「奈良時代末から平安時代初期にかけての宮中に、一人の肝の据わった貴族がいました。男の名前は和気清麻呂。彼は奈良時代~平安時代の貴族で、当初は姉と共に孝謙女帝(称徳天皇)に仕えていました。」

(黒田官兵衛)

「当時、宮中では怪僧・道鏡が女帝の寵愛を得て暗躍し、太政大臣禅師、更には法王として弟たちと朝政を牛耳らんとしておった。」

(黒田長政)

「なるほど・・・。」

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※宇佐八幡宮

(後藤又兵衛)

「769年、道鏡は宇佐八幡の宮司を懐柔して『道鏡が天皇となれば国は安んじられる』との神託を報告させます。」

(母里太兵衛)

「事実であれば、皇室の出自でないものが天皇になることになるではござらんか?」

(黒田官兵衛)

「その通りじゃ。そこで、事実確認の為に宇佐八幡宮へ勅使として派遣されたのが和気清麻呂でじゃった。」

(後藤又兵衛)

「神託を偽らせていた道鏡は、清麻呂をある時は脅迫し、ある時は官位で誘おうとしましたが、国と皇室への忠誠熱い清麻呂はこれに屈せず、宮中において『我国では臣下が天皇になったことはない。無道の者は早く追い払うべし』との神託を堂々と報告しました。面子をつぶされた道鏡は、清麻呂が『神託を偽った』と女帝に讒言して霧島に流罪としたのでした。」

(母里太兵衛)

「忠臣の鑑でござる・・・。」

(黒田官兵衛)

「孝謙女帝の崩御に伴い、道鏡が失脚すると、清麻呂は名誉を回復され、宮中に呼び戻された。」

(黒田長政)

「良かった~!」

(後藤又兵衛)

「そして、清麻呂が再び歴史を動かします。784年、桓武天皇は道鏡のような寺社勢力が強い平城京から人心を一新する為、新都・長岡京の造営を始めました。」

(黒田長政)

「確かに政教分離は良い考えですな、父上?」

(黒田官兵衛)

「しかし、責任者の藤原種継が暗殺され、桓武天皇の弟・早良親王が容疑者の一人として獄死。洪水や飢饉が相次ぐなど世情不安の中、造営は一向に進みませんでした。」

(母里太兵衛)

「それは実に困ったものでござる。」

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※平安京大極殿を模したとされる平安神宮

(後藤又兵衛)

「その時、既に還暦を迎えていた(当時としては高齢)のベテラン政治家、和気清麻呂が桓武天皇に進言したのが所謂「平安遷都」でした。清麻呂は自ら造営大夫を引き受けて1年余りで平安京遷都を可能にし、ここに長い長い平安時代の幕が開きます。和気清麻呂は『一千年の都・京都』の基礎造りに尽くした、夏の暑さ以上に熱い漢であり、気骨の貴族官僚でした。」

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※和気神社全景※

(母里太兵衛)

「ということは、この和気神社は清麻呂が流罪となった場所に因んで?」

(黒田官兵衛)

「奈良・平安時代の有能な官僚として知られる和気清麻呂は、出身地の岡山県等で崇敬の対象となっており各地に和気神社が建てられているのじゃが、その中でも出身地の和気神社と並んで別格なのがこの霧島の和気神社なのじゃ。」

(黒田長政)

「左様でございましたか。」

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※島津斉彬銅像(鹿児島市照国神社)

(後藤又兵衛)

「清廉な官僚・政治家であった和気清麻呂を崇敬した後世の薩摩藩主・島津斉彬は和気清麻呂が実際に流罪になっていた場所を調査し、自ら松の木を植えて手向けとし、戦後間もなく、その場所に建ったのがこの霧島の和気神社です。」

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(母里太兵衛)

「おや、狛犬ではなくイノシシが!?」

(黒田官兵衛)

「太兵衛、良いところに気付いたのう。実は、道鏡を天皇にするという宇佐八幡からの信託の真偽を確かめて戻る都への危険な道中(道鏡による口封じも想定された)、突如として数百頭の

イノシシが現れて和気清麻呂の輿を護衛したいう故事に因み、霧島・岡山を含めた全国の和気神社では狛犬ではなくイノシシが神社の両脇に鎮座しているのじゃよ。」

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※日本一の大絵馬に描かれた猪

(黒田長政)

「なるほど、それではこの日本一の大絵馬はイノシシが清麻呂を襲っているのではなく、護る為に同行しているシーンなんですね。勉強になりました。」

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※龍馬新婚旅行のパネル

(後藤又兵衛)

「余談ですが、霧島は幕末に坂本龍馬が日本初といわれる新婚旅行を敢行した関係で、それに因んだパネルや石碑も多いんです。」

(黒田官兵衛)

「それでは、龍馬とお龍も入浴したという栄之尾温泉(現・霧島いわさきホテル緑渓湯苑)にでも入るかのう?」

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※霧島いわさきホテル

(一同)

「賛成!!!」

[続く]

6月15日は弘法大師空海の誕生日!?黒田家の菩提寺である東長寺と博多の大仏!

2016 年 6 月 15 日

(神屋宗湛)

「本日は6月15日。真言宗の開祖で弘法大師と称される空海の誕生日だそうですよ。」

(島井宗室)

「おお、そうじゃ、そうじゃ。」

(神屋宗湛)

「では、今回は空海が中国の唐より戻り、最初に開いたとされる寺院で、九州真言密教の中心でもある東長寺に行きましょう。」

(島井宗室)

「ほほう?それは良い考えだ。」

(神屋宗湛)

「皆様に分かり易いようにご案内すると、エンクレスト御供所から大博通り沿いに博多駅方向へ向かうと、山門や鐘楼が見えてくるのが東長寺です。」

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※東長寺の山門

(島井宗室)

「通り沿いからもかなり目立つ伽藍じゃのう。」

(神屋宗湛)

「早速、お邪魔しま~す。あれ?叔父さん一大事ですよ!」

(島井宗室)

「どうした?」

(神屋宗湛)

「福岡大仏!全高16メートルだって!ご存知でした?」

(島井宗室)

「ナヌ?それは初耳だ。全高16メートルであれば、奈良の大仏の全高約15メートルを凌ぐ高さではないか!早速拝ませて頂こう。2階が入口らしいな。」

(神屋宗湛)

「撮影禁止らしいから、デジカメはしまっとこ。」

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※福岡大仏

(島井宗室)

「おお、何と荘厳な仏様じゃ!まるで今にも動きそうじゃ。」

(神屋宗湛)

「奈良の大仏様は土の御体に表面を銅(本来はその上に金箔)で作られていますが、こちらの福岡大仏はほとんど木製のようですね。」

(島井宗室)

「なになに・・・・。地獄体験じゃと?」

(神屋宗湛)

「仏様の台座の袖から入るようですよ。中では御説法のテープが流れているみたいですね。行きましょう!」

(島井宗室)

「こらこら、暗いから押すな!」

(神屋宗湛)

「そ、そんなこと言ったって!」

(島井宗室)

「(数分後・・・・)あいた~っ!」

(神屋宗湛)

「ごめんなさい!」

(島井宗室)

「こともあろうに、叔父である私を突き飛ばすとは・・・・。お前とは二度と暗闇には入らぬわ!」

(神屋宗湛)

「反省しております・・・・。」

(島井宗室)

「この東長寺は、そもそも空海(弘法大師)が中国大陸にて密教を学んで帰国した際に開いた由緒ある寺院で、現在でも九州における真言宗の拠点となっているそうな。」

(神屋宗湛)

「そうですね。その後、戦乱等で荒廃し、2代福岡藩主黒田忠之公(初代福岡藩主・黒田長政の長男)の時代に黒田家の支援を得て復興されました。」

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※境内の黒田忠之墓所

(島井宗室)

「それで黒田忠之公の墓が境内にあるのか・・・・。」

(神屋宗湛)

「はい。父祖の黒田如水様・黒田長政様等は県庁近くの崇福寺にあるのですが・・・・。忠之公は東長寺に余程強い思い入れがあったのでしょう。」

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※東長寺の本堂

(島井宗室)

「そして、これが本堂というわけか・・・・。勿論創建当時の建物ではないが、いかにも創建当時を偲ばせる大陸の影響を強く受けた雰囲気を醸し出しているな。」

(神屋宗湛)

「というと?」

(島井宗室)

「例えば、京都の平安神宮は平安京大極殿(重要儀式などが行われた宮殿の建物)を模しているのだが、私自身はあの大極殿によく似た荘厳なデザインだと思うのだが?」

(神屋宗湛)

「確かに云われてみれば、平安時代初期の薫りがしますね。」

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※六角堂

(島井宗室)

「さて、本堂はこれくらいにして・・・・。六角堂かな?」

(神屋宗湛)

「こちらは江戸時代に建てられたものですが、聖福寺の住職として有名な仙厓和尚等、当時の著名人の書画が収納されています。」

(島井宗室)

「一度に沢山参拝出来るように六角形というのが面白い。」

(神屋宗湛)

「中におわします仏様は6体ですから、ご利益は6倍ですね。」

(島井宗室)

「ハハ、その通りじゃ。しかし、東長寺は厳かだが実に面白いところじゃ。また参拝に来たいものだ。」

(神屋宗湛)

「そうですね。また一緒に地獄めぐりをやりましょう!」

(島井宗室)

「お前とは絶対イヤだ!」

(神屋宗湛)

「・・・・。」

[続く]

うどん・蕎麦、まんじゅう、そして山笠発祥の地である承天寺(正一国師・少弐氏・謝国明)

2016 年 5 月 29 日

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(神屋宗湛)

「さあて、大博通り周辺で聖福寺・東長寺と共に欠くことが出来ない寺院といえば、あとは承天寺ですね?」

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(島井宗室)

「うむ。承天寺を開山した聖一国師は臨済宗の高僧で、栄西禅師と同様に中国大陸(宋)に渡って禅を学び、帰国後に博多に承天寺を開いたのだ。」

(神屋宗湛)

「承天寺の建立には、有力武将や貿易商からの寄付があったとか?」

(島井宗室)

「左様。例えば、寺院建設に必要な資材を提供したのは博多在住の豪商・謝国明だという。」

(神屋宗湛)

「謝国明といえば、以前大河ドラマの『北条時宗』に出ていたあの妖しい貿易商ですね?」

(島井宗室)

「これこれ。それは余りにも失礼であろう。謝国明殿は博多の発展にも寄与した我等博多商人の偉大な先人じゃぞ。」

(神屋宗湛)

「だって、一族郎党が全員大陸風の衣装に身を包んでいて、雑技団みたいな武術を使うし、おまけに親友が松浦党の海賊ですよ。妖しくない訳ないじゃないですか!」

(島井宗室)

「・・・・。まあ良い。それから、承天寺の敷地を提供したのは大宰府の武官であり、鎌倉幕府の有力御家人でもあった武藤資頼公。」

(神屋宗湛)

「武藤資頼公は鎌倉時代後期のモンゴル軍来襲の折に、九州の武士団の指揮をとった少弐資能公の父ですね?」

(島井宗室)

「その通り。資能公の代になって官職である『太宰少弐』から『少弐』氏を名乗るようになったが、当時の武藤(少弐)氏の勢力は強く、豊前国・筑前国・肥前国・壱岐国・対馬国を守護として支配していたのだ。」

(神屋宗湛)

「事実上の博多の庇護者だった訳ですね。」

(島井宗室)

「左様。このことだけ見ても、承天寺の格の高さが分かるというもの。」

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(神屋宗湛)

「さて、着きましたよ。」

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※承天寺の勅使門

(島井宗室)

「この門には菊の御紋がある。かつては官寺であっただけあって、勅使(天皇の使者)を通す為の勅使門がある。聖福寺の時のように勅使門に近付くでないぞ。宗湛、分かったか?」

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※饂飩蕎麦発祥の地

(神屋宗湛)

「は~い。おや、『饂飩蕎麦発祥の地(うどんそばはっしょうのち)』とは何でしょう?」

(島井宗室)

「承天寺の開祖である聖一国師は、大陸に渡って禅の教えを学んだ一方で、うどん・蕎麦・まんじゅう等の製法を身に付けて帰国したのだ。」

(神屋宗湛)

「なるほど。それで、うどんと蕎麦の製法を持ち帰ったこの博多の町に『饂飩蕎麦発祥の地』という石碑があるのですね。」

(島井宗室)

「うむ、没後に花園天皇より贈られた『聖一』の国師号もそういった仏教以外の功績を含めたものかも知れぬな。」

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※鐘楼と金堂

(神屋宗湛)

「敷地内を見回すと、鐘楼や金堂をはじめ、いかにも禅寺らしい崇高で落ち着いた雰囲気の建物が並んでいますね。」

(島井宗室)

「最盛期と比較すればその後の戦乱で著しく規模が縮小し、戦後の区画整理で敷地内に道路が通ってしまっているが、それでも往時の雰囲気を充分に残しているな。」

(神屋宗湛)

「叔父さん、この石の塊は何ですか?」

(島井宗室)

「これは、鎌倉時代に博多に来襲したモンゴル軍(元寇)が使用していた軍艦の石製の錨だな。」

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※境内に残るモンゴル軍艦の碇

(神屋宗湛)

「これが、かつてユーラシア大陸全土に猛威を振るったモンゴル軍の軍艦の一部なのですね。あの時は叔父さんも大変だったでしょう?」

(島井宗室)

「うんうん、あの時は現金と小さくて高価な物を身に付けて家族や使用人と博多から肥後の菊池へ避難を・・・・。って、私が生まれたのは元寇の200年以上後だっ!」

(神屋宗湛)

「へへ、冗談ですよ。」

(島井宗室)

「全く、叔父を年寄り扱いしおって!」

(神屋宗湛)

「話は変わりますが、博多山笠の源流も承天寺と聖一国師だとか?」

(島井宗室)

「左様。1241年に博多の町で疫病が流行した際に、聖一国師が病魔退散の為に輿に乗って街を清めて巡ったのが由来だと言われている。」

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※承天寺本堂と庭園

(神屋宗湛)

「それにしても、本当に承天寺は興味深い寺院ですね。鎌倉時代の大大名である少弐氏や豪商・謝国明殿の援助で建てられ、勅使門を有するような格式の高い寺院でありながら、人々の生活に根付いたうどんに蕎麦、饅頭、おまけに博多山笠の発祥に地でもあるなんて。政治と風俗という一見相反するものの歴史を一度に垣間見られますね。」

(島井宗室)

「ところで宗湛よ。せっかく、うどん・蕎麦発祥の地に来たのだから、そこの春月庵さんで美味いうどんでも食べて帰るか?」

(神屋宗湛)

「いやだなあ、叔父さん。先程お昼を食べたばかりなのに・・・・。あまり間食ばかりしていると、メタボになっちゃいますよ!ボクは叔父さんの健康を本当に心配しているんですから。」

(島井宗室)

「(ムカッ)そうかそうか。それ程私の健康が心配ならば、大博通りの北端から南端までランニングで一緒に往復10周するか?」

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※博多の街の未来千年の繁栄を願って2016年承天寺通りに建てられた博多千年門(せんねんのもん)。

(神屋宗湛)

「・・・・。さあて、ボクはきつねうどんを注文しま~す!」

(島井宗室)

「調子のいいヤツだ!」

[続く]

※博多千年門の画像は公益財団法人福岡観光コンベンションビューローHPより転載