エンクレストマンションが展開する福岡市は中世からの商都「博多」と
近世(江戸時代以降)以来の武家町「福岡」を擁する双子都市として発展しました。
(子)
「父上、今日は中央区大名にある日本たばこ産業株式会社へ参りましょう。」
(父)
「長政よ、今ワシは小銭もタスポも持ち合わせておらぬし・・・・。第一、禁煙中じゃぞ・・・・。」
(子)
「父上のタバコを自販機に買いに行くのではありませんぞ・・・・。ある一廉の武将に縁のある場所を訪ねようとしておるのです。」
(父)
「何じゃ、改まった顔をして・・・・。しかし、その一廉の武将は日本たばこ産業株式会社の近くに居を構えるほどのヘビースモーカーなのか?困った奴じゃのう・・・・。」
(子)
「・・・・。父上、ここで問題でございます。隣国である肥後国(熊本県)の大名・加藤清正の家中において、我が黒田家の母里太兵衛・後藤又兵衛等に相当する重臣は誰でございましょう?」
(父)
「むむ?それはやはり、朝鮮での戦いで晋州城一番乗りを果たした『飯田覚兵衛』こと飯田直景であろうな。清正自身も優秀な武将だが、清正を支えた飯田覚兵衛もまた一廉の人物であったろうと思うぞ。先ほどの晋州城攻めでは我が家中の後藤又兵衛と一番乗りを争うほどの勇猛な人物であるし、熊本城は勿論、江戸城・名古屋城の築城にも参加し、清正同様に築城に明るい人物としても知られておるのじゃ。」
(子)
「さすがは父上。正解でございます。父上が仰るように、飯田覚兵衛は知勇兼備の名将であり、竹馬の友『森本儀太夫』と共に清正の両腕として知られております・・・・。実は、中央区大名の日本たばこ産業株式会社は飯田覚兵衛の屋敷跡なのです。」
(父)
「ほう・・・・。もともと、加藤清正・飯田覚兵衛・森本儀太夫の三名は主従関係というよりは幼馴染の間柄。幼少の頃、村相撲で勝った加藤清正に、負けた飯田覚兵衛・森本儀太夫両名が終生仕える約束をしていたそうじゃ。」
(子)
「随分お詳しいですな。」
(父)
「実は、故・司馬遼太郎の短編小説『覚兵衛物語』を読んだんじゃよ・・・・。」
(子)
「道理で・・・・。」
(父)
「この小説では本当は武士ではなく、歌人として風雅の道に憧れていた飯田覚兵衛が、幼時の契りに縛られて武士になったところ、人も羨むほどの予想外の成功を収めてしまい、不本意ながら家老として加藤家を支え続けたという筋書きになっている・・・・。」
(子)
「成程・・・・。」
(父)
「しかし、清正の死後、後を継いだ子の加藤忠広が余りにも愚かな主君であった為、『自分の人生とは何だったのだろう。清正との義理など捨てて歌人に成っておけば良かった。』と悔やみながら飯田覚兵衛は加藤家を去ったそうじゃ。」
(子)
「確かに・・・・。覚兵衛が加藤家を去るのと相前後して加藤家は取り潰しになっております。」
(父)
「結局は、『覚兵衛物語』にあるように飯田覚兵衛あっての加藤家であり、名将・加藤清正を世に演出したのは覚兵衛だったのじゃな。だからこそ、覚兵衛が去ると同時に加藤家は滅び去ったのであろう・・・・。しかし、何故清正の懐刀の屋敷が福岡にあるのじゃ?」
(子)
「はっ。飯田覚兵衛もまた、加藤家中の名士。その名は加藤家の外にも轟いておりました。当然ながら我が黒田家とも親交があり、加藤家を去った覚兵衛は当家の客分としてこの屋敷に滞留し、子孫は代々黒田家の家臣となったのでございます。」
(父)
「ほう・・・・。では、この大銀杏の樹はかつての飯田屋敷の名残という訳じゃな?」
(子)
「はい。この大銀杏の樹は覚兵衛が普請奉行、つまり工事監督者となった熊本城(別名銀杏城とも)から飯田屋敷に移植され、その後は福岡市の手で大切に保護されておりまする。かつて、同じ明治通り沿いには、現在の天神センタービルの場所に、以前紹介した母里太兵衛の屋敷もありまして、戦国の豪傑達の屋敷跡が揃っております。」
(父)
「それは面白い・・・・。しかし・・・・。」
(子)
「何でございます?」
(父)
「加藤清正ほどの武将が起こした家でも、二代目が頼りなければアッという間に滅んでしまう・・・・。」
(子)
「???」
(父)
「そうなると、我が黒田家の二代目のことが心配なんじゃよ・・・・。」
(子)
「父上。皆様の前でその手のネタはいい加減に止めて頂けませんでしょうか?この長政も人並み以上に傷つき易い繊細な心の持ち主なのでございますが・・・・。」
(父)
「・・・・。」
[続く]
(又)
「殿、今日は私にとって最後の戦いとなった『大坂夏の陣』の話をいたしましょう。」
(子)
「うむ、楽しみにしておったのだ。是非聞かせてくれ。」
(又)
「前回、『大坂冬の陣』の講和条件が『大坂城の堀を埋める』ことであったのは、お話しました。」
(子)
「いかに巨大な人工物とはいえ、講和条件に上がるとは大坂城の堀はそれ程厄介なものだったのか?」
(又)
「はっ。大坂城はもともと浄土真宗の総本山・石山本願寺の跡地に築かれました。」
(子)
「浄土真宗は戦国時代には一向宗とも呼ばれ、信徒達が起こした軍事行動・一向一揆は織田信長公と衝突して幾度も苦杯を舐めさせた。」
(又)
「左様でございます。一向一揆の軍事拠点でもあった石山本願寺は、淀川をはじめとする要害に囲まれ守り易く攻め難い地形でした。」
(子)
「そうだな。結局信長公は10年かかっても石山本願寺を攻め落とすことが出来ず、最終的には講和、つまり平和条約を結んで浄土真宗側が石山を退去することになった訳だ。そして、本能寺の変後に天下人になられた豊臣秀吉公は、石山の軍事上・交通上の立地に目を付け、壮大にして堅固な大坂城を築かれた・・・・。」
(又)
「秀吉公は大坂城の防備を一層固め、天守閣をはじめとする大小多数の櫓、内堀・外堀・空堀を本丸・二の丸・三の丸の外周に設けられました。最近の発掘では、堀の底をジグザグ模様に区切り、堀の底を徒歩では接近出来ないような遺構も見つかっておりまする。」
(子)
「なるほど。徳川軍の兵士が泥水に濡れる覚悟で堀の底を忍び寄っても、ジグザグ状に構築された障害物に足を取られ、立ち往生しているところを豊臣軍に撃たれる訳だ。」
(又)
「しかも、前回お話した真田丸の様な応急の砦が増設されており、『大坂冬の陣』において、徳川軍は兵力の差を十分に生かし切れなかったのでございます。」
(子)
「一度に大軍で襲い掛かっても、侵入路が限られている為に撃退されてしまう訳だ・・・・。」
(又)
「大坂城の堀がいかに重要であったかは、秀吉公が生前に『唯一の大坂城攻略法は、謀略で堀を埋めてしまい、裸城にしてしまうことだ』と、仰ったことからもうかがえます。」
(子)
「家康公はそのことをしっかり覚えておられた訳だ。なにせ、大坂冬の陣終了後に江戸へ戻られる際、『堀を埋める際には3歳の子供でも渡れる状態にせよ』と堀の埋め立てを念押しした位だからな・・・・。」
(又)
「皮肉にも、豊臣方上層部は堀の埋め立てをあっさり受け入れてしまったのですが、家康公が埋め立て作業を、わざわざ腹心の本多正純等に監督させ、埋め立て方法も周囲の建物を崩して廃材まで投げ入れる等の強引な方法をとっていることから、私や真田信繁はこれが家康公の謀略だと見抜きました。」
(子)
「家康公は、大坂冬の陣が終わった時から、御自身の存命中に豊臣家を滅ぼす執念だったのだな・・・・。」
(又)
「はい。1615年4月、危機感を募らせた豊臣家の将士は、埋められた堀の一部を掘り返すと共に、『大坂冬の陣』の発端となった方広寺から建築資材を運び入れて城壁・バリケードを増築し始めました。そして、家康公からの浪人衆召し放ち(傭兵の解雇)要求を豊臣方は最終的に拒否。決戦の機運は高まりました・・・・。」
(子)
「機先を制した豊臣軍が積極攻勢に出たのだな?」
(又)
「大野治房隊が4月26日に大和国・郡山城(奈良県)、4月28日には堺の街を攻撃することで戦端は開かれました。私は、河内平野で徳川軍の先方を迎え撃つことを秀頼公に進言しました。徳川軍が京都方面・奈良方面の2方から街道筋に大坂城へ向うであろうことは明らかであり、2方面から進んできた徳川軍の合流を阻めば、その進撃を遅らせ、あわよくば大打撃を与えることが出来ると考えたからでした。」
(子)
「豊臣軍の配置は?」
(又)
「七手組の内、長宗我部盛親・木村重成隊の兵力1万を京都方面へ、奈良方面には私の直卒する2800名を含む6500の兵力を先鋒とし、後続部隊が真田信繁・明石全登隊1万2000。先鋒を任された私は徳川軍の合流予想地点である道明寺(大阪府藤井寺市)に陣取ることにしました。」
(子)
「徳川軍には、あの伊達政宗が加わっていたんだな?」
(又)
「私の生涯最後の戦いで、まさか独眼龍・政宗殿と戦うことになるとは思いませんでした・・・・。奈良方面の総大将は、家康公の六男・松平忠輝様。これを補佐する形で舅(松平忠輝の妻の父)の伊達政宗殿が加わり、先鋒の大将は水野勝成で、他に松倉重政・奥田忠次が加わっておりました。」
(子)
「道明寺にはいつ着いたのだ?」
(又)
「5月6日の夜明け前には到着、我隊は付近の小高い丘・小松山に布陣しました。既に徳川軍の先鋒である水野・奥田・松倉の各隊が接近していたことから、私は先に攻撃を仕掛けました・・・・。」
(子)
「奈良方面の徳川軍は3万名以上の大兵力。味方の後続部隊1万2000は勿論、先鋒部隊も半数が到着していない状態だったのに、10倍以上の兵力差があってよく仕掛ける気になったな・・・・。朝鮮半島での虎退治と一緒で血気に逸ったのか?ふふ・・・・。」
(又)
「ハハハッ。殿、それを言うなら独眼・『龍』退治でございますぞ(笑)!正直、味方の到着が大幅に遅れているのを見て、私は最早勝ち目がないことを悟っていました。ですから、せめて伊達勢をはじめとする徳川軍を足止めして味方の為に時間を稼ぎたかったのです・・・・。」
(子)
「又兵衛の戦いぶりは聞いているぞ。奥田忠次を討ち取り、松倉重政隊を撃破したそうではないか?やはり又兵衛は強いな。」
(又)
「申し訳ございません。結果的に殿の敵方に回ってしまいながら、お褒め頂けるとは思いませんでした・・・・。その後も水野勝成隊や伊達家の片倉重綱隊を撃退した私ですが、徳川軍の本隊である伊達政宗隊が到着すると、流石の私も覚悟を決めねばなりませんでした・・・・。8時間にも及ぶ激闘で、私の部下達は多くが傷つき、味方は先鋒部隊・後続部隊共に来てくれません・・・・。正午頃、遂に銃弾で打ち抜かれて立てなくなった私は、この世で殿にお詫びをすることも出来ずに、部下に介錯させて自らの生涯と戦歴に終止符を打ちました・・・・。時を同じくして、京都方面の徳川軍を八尾・若江(いずれも大阪府東大阪市・八尾市)付近で迎え撃つ戦いでも、長宗我部盛親隊が藤堂高虎隊に大打撃を与えたものの、木村重成がやはり戦死し、夏の陣では連戦連勝だった長宗我部盛親も手持ちの兵力が尽きて孤立し、敗走中に戦死してしまいました・・・・。七手組の内、三手が欠けてしまい、豊臣家は大坂城周辺に追い詰められた訳です。」
(子)
「だが、翌5月7日毛利勝永・真田信繁・大野治房・明石全登の各隊を中心に豊臣家は最後の決戦を挑んだ・・・・。又兵衛や木村重成の仇を討つかのように彼等の戦いぶりは凄まじく、毛利勝永は家康公が直接指揮を執る天王寺口(大阪市阿倍野区付近)の先鋒・本多忠朝を討ち取り、真田信繁は家康公の本陣へ三度も突入し、身辺近くまで真田隊に接近された家康公は死を覚悟したそうだ・・・・。大野治房も岡山口(大阪市平野区付近)の総大将・徳川秀忠公の本陣に突撃を敢行し、徳川軍先鋒・土井利勝隊を突破する勢いだったそうだ。」
(又)
「しかし、結局は多勢に無勢・・・・。前日の長宗我部盛親と同様、後続の兵力が続かずに真田信繁が戦死。明石全登は行方不明。大野治房と毛利勝永は大坂城内へ撤退しました。」
(子)
「遂に豊臣家の命運も尽きた訳か・・・・。」
(又)
「はい。その日の夜、大坂城が炎上し、豊臣秀頼公と淀殿は翌5月8日に自害。大野治長・毛利勝永も追い腹を切りました・・・・。大野治房は秀頼公の一子・豊臣国松君を連れて豊臣家の再興を図りますが、結局捕えられて僅か8歳の国松君共々処刑されました。こうして、多くの血が流れて豊臣家は滅び、そして永く続いた戦国の世は終わりを迎えたのでございます・・・・。」
(子)
「七手組の諸将は皆、見事な最期を遂げたのだな・・・・。しかし、又兵衛に独眼龍と互角の兵力があれば、きっと独眼龍の方が退治されたであろうな。ハッハッハッ!オレ様は又兵衛の大坂の陣での戦いぶりを元主君として誇りに思うぞ!後藤又兵衛という漢(おとこ)を輩出したことを福岡の人々が誇りに思ってくれるように、薩摩藩主・島津家久が真田信繁を称えたこの言葉を改めて贈ろう!」
(又)
「・・・?」
(子)
「後藤又兵衛日本一の兵、古よりの物語にもこれなき由!」
[続く]